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泉涌寺道交差点に出た。 そこから東大路通りを北に向かってぶらつく。 200m位歩いたところに新熊野神社(イマクマノジンジャ)が鎮座していた。 神社入口左に後白河法皇お手植えと伝わる大樟が茂る。 本殿を参拝した後、それほど広くない境内を巡る。 やたらと絵に描いた神(仏)の社や神話を説明した絵が多かった。 説明板によれば、熊野本宮八葉曼荼羅をモデルに境内に社を配置しているとのこと。 新熊野神社(イマクマノジンジャ)は、熊野信仰が盛んであった平安後期の永暦元年(1160)後白河上皇が紀州熊野 の神をこの地にあった仙洞御所・法住寺殿の内に勧請して鎮守社として創建されたものである。 上皇の命を受けた平清盛は熊野の土や土砂、材木を用いて社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷 いて霊地熊野を再現したとされる。 皇室の崇敬が篤く、社域は広壮、社殿は荘厳を極め、約350年間に渡って繁栄した。 室町第三代将軍足利義満が初めて観阿身弥・世阿弥父子の能を見た場として知られる。 しかし、応仁の乱(応仁元年、1467)以降度々の戦火に見舞われて荒廃し、約120年間廃絶同様の状態にな っていた。 江戸時代初期 東福門院(後水尾天皇中宮、徳川秀忠の娘、家光の妹)が再興した。 なお、「新熊野」と書いて「イマクマノ」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の 昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の当社に対する認識が、その由来になっているそうだ。 左手の大樟は、当社創建の際、紀州熊野から運ばれ、後白河上皇「お手植えの樟」と伝えられる。 大樟「お手植えの樟」を御神体としている。 お手植えの樟は「樟龍弁財天」、「樟大権現」または親しく「大樟さん」として多くの人々に信仰されている。 健康長寿、病魔退散、特にお腹の神様としてご利益があるとか。 奥に熊野牟須美大神(クマノムスビノオオカミ 伊弉冊尊)を祀る本殿が建つ。 熊野造りの代表的建物 寛文13年(1663)聖護院宮道寛親王(後水尾天皇の皇子)により造営された。 祭神 速玉之男大神(ハヤタマノヲノオオカミ 伊弉諾尊) 熊野家津御子大神(クマノケツミコノオオカミ 素戔鳴尊) 祭神 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト) ニニギノ尊 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト) 鵜茅草葦不合尊(ウカヤフキアエズノミコト) 祭神 稚産霊社(ワクムスビノカミ) 穀物の神 軻遇突知神(カガツチノカミ) 火の神 埴山姫神(ハニヤマヒメノカミ) 土の神 弥都波能売神(ミズハノメノカミ) 水の神 図柄は熊野の神の化身と考えられる八咫烏。 神武東征の際、熊野から大和へ道案内したとされる伝説の鳥。 今では、日本サッカー協会のシンボルマークとしてお馴染みですね。 |
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後白河天皇(1127年-1192年)、在位:1155年-1158年)は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。
鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に渡り院政を行った。
その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるが、そのたびに復権を果たした。
政治的には定見がなくその時の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。
和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。
2012/8/26(日) 午後 1:15 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]