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(信長は)山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨(ムラサメ)、石氷を投げ打つ様に、敵のつらに 打ち付くる。 みかたは後の方に降りかかる。 沓懸(クツカケ)の到下(タウゲ)の松の本に、 二かい三かゐの楠の木、雨に東へ倒るゝ。 余りの事に、熱田大明神の神軍かと申し候なり。 空は晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取って、大音声を上げて、すは、かゝれ、かゝれと仰せられ、 (太田牛一「信長公記」首巻) 名古屋の中心「栄」でZさんの車に拾ってもらう。 そこから、名古屋市の東南端の桶狭間古戦場まで約1時間半ほどかけていく。 この間、Zさんの講釈を聞かねばならなかった。 桶狭間の戦は、永禄3年(1560)5月19日尾張に攻め込んだ、東海の雄・今川義元が、織田信長に急襲され戦 死した戦である。 この結果信長が天下布武の道を歩む第一歩となった。その桶狭間古戦場はどこかについて諸説ある。 今川方2万5千(「信長公記」では4万5千)、織田方3千が入り乱れた戦であるから、名古屋市緑区と豊明市 の境の境にある「桶狭間山」を中心に相当広い範囲と考えられる。 ただ、今川義元が討取られたところに限定すれば、桶狭間山の北に位置する「現 豊明市」側と、南に位 置する「現 名古屋市緑区」側が、夫々古戦場址を主張しているとのことだ。 国道1号を南に下り、名鉄「中京競馬場前」駅からすぐ近くの「豊明市」側に、まずよってみた。 桶狭間古戦場伝承地は、四阿を設けた小公園となっており、遺跡は、その小公園と道を挟んだ向かいの高 徳院に広がってあった。
桶狭間古戦場
昭和12年(1937)史跡指定、標柱は昭和16年(1941)10月建立文化6年(1809)津島の神官氷室豊長が建てたもの。 碑の表面は桶狭間の戦を回顧するとともに往時を偲ぶ詩。 裏面は古戦場が放置され荒れ果てているのを嘆き、その由来を明らかにするとの建碑の主旨が彫られている。 七石表は明和8年(1771)尾張藩士人見弥右衛門桼(アツシ)、赤林孫七郎信之により建立 一号碑は今川上総介義元戦死所、2号は(高徳院境内)は松井宗信戦死所、3号以下は武将5人、名は不詳 ここは塚であったが有松の住人・山口正義が主唱し、明治9年(1876)この墓を建てた。 碑陰記によれば、弔古碑が建てられた後、通りかかった旅人が義元の墓と間違えて香華を手向けたりしていた。 この為、改めて周辺を整備し、義元の墓を建てたという。 近くに、義元の馬を繋いだという「駒つなぎのねず」の枯れ木がある。 高徳院側の竹やぶにあった。 今川義元300回忌の万延元年(1860)に建立。 方形の石柱に笠と蓮華弁を模した台座が付く「墓塔形式」であるため「仏式の墓」と呼ばれている。 高徳院側の竹やぶにあった。 徳本行者(文化文政頃の江戸浄土宗の高僧)がこの地を訪れて、戦死者の霊を弔うために建てたもの。 円筒形の小塔で、「南無阿弥陀仏」の6字が刻まれている。 山号は香華山、真言宗の寺院 境内の奥に、桶狭間古戦場史料館と霊宝館があるが、どちらも閉館中だった。 本堂前に建っていた。 今川義元直系19代芹沢一郎が建立したもの。 側に大きなタブの木が生えていたが、この木は明治39年(1906)皇太子殿下来山の際、奥保陸軍大将が記念植樹したもの。 香川景樹は和歌の桂園派の巨匠。 自分の歌風を広めようと意気込んで江戸に出たが、迎えられなかった。 文政元年(1818)失意を抱いての帰路、桶狭間を通った。 信長によってこの地に没した義元の気持ちを汲み、自身の心に引きあてて詠んだ一首。 跡とへは 昔の時の こゑたてて 松にこたふる かせの悲しさ 写真は高徳院境内のものだが、小公園にも建っていた。 |
東海紀行
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