ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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再び三千院の門前に来た。今度は北方向に歩き、天台声明の根本道場・大原寺「勝林院」に向かう。

三千院門前から勝林院までは100mも満たない距離であるが、注意を惹くものがいくつかあった。



イメージ 1 鉈捨薮跡(ナタステヤブ)
三千院北側を流れる律川に架かる橋詰にあった。
文治2年(1186)勝林院での法然上人の大原問答の折、その弟子・熊谷直実は「師の法然上人が論議にもし敗れたならば法敵を討たん」との目的で鉈を隠し持っていたが、上人に諭されて鉈を薮に投げ捨てたと伝えられる。
しかし、この話は全くおかしい。
と言うのも、熊谷直実はこの頃まだ武骨丸出しの武者であることが伝えられており、法然の弟子になったのは建久4年(1193)頃と言われているからだ。

寿永3年(1184)一の谷の合戦で平敦盛を討って仏心が生れたとされる熊谷直実だが、文治3年(1187)鶴岡八幡宮での流鏑馬で、役が気にいらないと頼朝に逆らっているし、建久3年(1192)久下直光との所領争いして逆上している。
建久4年(1193)頃金戒光明寺で出家・法然の弟子になった、と伝えられている。


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                            未明橋?茅穂橋?
三千院北側を流れる律川に赤い欄干の橋が架かっている。
三千院側の欄干の柱には「未明橋」と記され、反対の勝林院側の柱には「茅穂橋」と記されていた。
どちらが本当の橋の名であろう?


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                             大原陵
後鳥羽天皇、順徳天皇の御陵

(後鳥羽院は隠岐にて)延応元年(1239)といふ二月二十二日六十にてかくれさせ給ぬ。・・・・・・・

・・・・・お骨をば、能茂'(ヨシモチ)といひし北面、入道して御供にさぶらひけるぞ、首にかけ奉りて

都に上りける。(「増鏡」上 第三藤衣)

後鳥羽天皇は、高倉天皇の第四皇子、寿永2年(1183)3歳で即位、建久9年(1198)土御門天皇に位を譲った

後、23年間院政を行った。

蹴鞠、琵琶、笛などの芸能のほか、相撲、水練、射芸などの武芸もたしなんだ多才な人物だった。

とくに和歌に優れ、元久2年(1205)「新古今和歌集」を撰した。

承久3年(1221)承久の変に敗れ隠岐に配流された。

順徳天皇は、後鳥羽天皇の第三皇子で、承元4年(1210)兄の土御門天皇に次いで即位、承久3年(1221)皇位

を皇子の仲恭天皇に譲る。

承久の変に参画して佐渡に配流、そこで崩御された。


イメージ 7 法華堂
大原陵の北側に隣接。
仁治2年(1241)後鳥羽天皇の冥福の為梨本門主尊快法親王母公修門院の計らいにて水無瀬の御所を持って建立、享保21年(1736)類焼。
安永年間(1772〜1781)再建したもの。
昭和11年(1936)内部及び屋根修繕

さて大原の法花堂(ホッケドウ)とて、今も、昔の御庄の所々、三昧料に寄せられたるにて、勤め絶えず

かの法花堂には、修明院の御沙汰にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿をわたさせけり
                                            (「増鏡」上 第三藤衣)

仁治二年二月八日、大原法華堂供養、同日西林院御堂より法華堂に(後鳥羽院の御遺骨を)渡し奉る
                                            (「一代要記」)


イメージ 8 法然上人腰掛石
勝林院門前にある。

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