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金龍山浅草寺の仁王尊 右のかたの一体を拝し、いまだ疱瘡せざる小児をこのところへ連れ行き、 此股ぐらをくぐらすれば、疱瘡はしかいたってかるしとて、遠近より聞つたへ此所へきたる。 平常は錠をおろして内へ入ることを禁すれども、毎月八日御えん日、右の日に人を入るなり。 (「願掛重宝記」) 雷門から宝蔵門までの約140mの参道が仲見世通りで、菓子、玩具、小間物といった土産物などの店約90 店が並ぶ。 しかし、今日は雨で、ビニールシートなどで雨除けしている店が多く、のんびりと見物していく訳には行 かない。 名前の由来は、雷門と仁王門(現宝蔵門)の中にあったからだと言う。 花井戸の人々に浅草寺の境内の掃除役の代償として営業権が認められたのが始まりといい、元禄の頃から みられた様だ。 ただ、現在の様になったのは、両側にあった支院12院が移転した明治以降である。 やがて左手に本坊の「伝法院」、五重塔が見えると、聳え立つ宝蔵門(旧仁王門)の前に来た。 店を眺めるのも楽しみの一つだが、雨の日はそうもいかない。 ただ通り過ぎるだけだった。 出法院は浅草寺の院号で、本坊の称号に用いられている。 諸建物の内、客殿、玄関、使者の間、大台所の一部は安永6年(1777)の建物である。 建物の背後には小堀遠州作といわれる回遊式庭園があるが、通常非公開である。 昭和39年(1964)大谷重工業、ホテルニュウーオオタニの創業者・大谷米太郎の寄進で再建 鉄筋コンクリート造り。 宝物の収蔵庫を兼ねた山門で重層の楼門であることから宝蔵門と名付けられた。 山門の創建は「浅草寺縁起」によると天慶5年(942)平公雅によると伝えられる。 その後、焼失と再建を繰り返し、慶安2年(1649)に再建された仁王門は山門として昭和20年空襲で焼失するまでその威容を誇っていたと言う。 江戸時代仁王門の上層回廊は、年6日間一般庶民に開放され、絶景スポットとして人気を博していたとか、今はどうか? 仁王像 向かって左が阿形(錦戸新観の作)、右が吽形(村岡久作の作)で、夫々木曾檜造り総高5.45m、重さ約1tだそうだ。 江戸時代の仁王像には冒頭のような信仰が在った様で、次のような文言も見られる。 「そして、まだ疱瘡前でございますから、観音さまの仁王さまの股をくぐらせてくださいましヨ。 この頃あっちこっちに、だいぶ疱瘡がありますそうだから」(曲山人「仮名文章娘節用」) 宝蔵門の裏側には大きな草履が奉納されていた。 片方だけで、長さ4.5m、幅1.5m 重さ500kg在るそうだ。 この大草鞋も浅草名物の一つ。 宝蔵門の西側に五重塔が建つ。高さ53.3m。 昭和48年(1973)再建された鉄筋コンクリート造り スリランカの王立寺院より勧請した「佛舎利」を安置する。 天慶5年(942)平公雅が建立したのが始まりとし、家光が再建した五重塔は昭和20年(1945)空襲により焼失。 |
関東紀聞
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