ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

関東紀聞

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所は大江戸の東北の霊地にて、彼王城のそれならで、固く守る浅草観音、参詣群集は言も更也。

鉢坊主の木魚の音ポクポクとして腹に響は、千日参りの鉦の音カンカンとして耳に貫く。

雷神風神左右に開けば、新場の提灯真中にぶらさがり、陰陽の仁王つっ立かへれば、

久米の平内席を正して畏る。  (鸚鵡斎貢「松登妓話」)


宝蔵門(旧仁王門)を過ぎると、正面に本堂が建つ。屋根は急勾配で棟が他寺院に比べて高い。

内陣に入り、本尊及びお前立ち本尊が居られるという宮殿の前に座り「南無観世音菩薩」と合掌した。

浅草寺は、山号を金龍山と号し、元は天台宗に属したが、戦後独立し「聖観音宗」の総本山である。

本尊は聖観世音菩薩(秘仏)、開基は勝海上人、中興開山は慈覚大師円仁 としている。

縁起は種々あるが、その一つとして次のようである。

推古天皇36年(628)3月18日の朝、檜前浜成(ヒノクマ ハマナリ)、竹成(タケナリ)の兄弟は江戸浦(隅田川)に漁労中、

網にかかった一体の観音像を得た。

郷司土師中知(ハジノナカモト 名前に諸説あり)は、これを拝し、聖観世音菩薩であることを知り深く帰依し、

その後出家し、自宅を改めて寺とし、礼拝供養して生涯を捧げた。

こうした縁起とは別に十人の童子がアカザという草で御堂を建てたという伝承(「江戸砂子」など)も

ある。

大化元年(645)勝海上人がこの地に来て御堂を建立し、夢告により本尊を秘仏と定めた。

平安初期の天安元年(857)慈覚大師円仁(浅草中興開山、比叡山天台座主3世)が来山し、お前立ちの本尊と

御影版木(ミエイハンギ)を刻んだ。

平安中期安房の国守であった平公雅(タイラノキンマサ)が京都へ帰る途次、浅草寺に参拝し、次は武蔵の国守に任

ぜられる様に祈願したところ、その願いが叶ったことから、そのお礼に、天慶5年(942)堂塔伽藍を再建

し、田地数百町を寄進したと伝える。

鎌倉時代将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として武将らの信仰を集め、伽藍の荘厳は

いよいよ増した。

江戸時代初め、徳川家康によって幕府の祈願所とされ、3代将軍家光によって本堂、仁王門、五重塔な

どが再建されるなど、堂宇の威容が更に整い、いわゆる江戸文化の中心として大きく繁栄した。

本尊は一寸八分といわれるので 小粒でも これ見てくれの 大伽藍 (「誹風柳多留」36)との川柳も。

第二次大戦では、昭和20年(1945)3月10日の空襲で主要堂宇の多くを焼失したが、戦後再建整備された。

こうして、都内最古の寺院である浅草寺は、「浅草観音」の名称で全国的にあらゆる階層に親しまれ、

年間約3千万人もの参拝者が訪れる民衆信仰の中心となっている。


イメージ 1お水舎の沙竭羅(サカラ)龍王像
本堂前右にあるお水舎は昭和39年(1964)建立
その中央の八角形の手水鉢の中央に建つ沙竭羅(サカラ)龍王像は高村光雲作で
明治36年(1903)奉安され、本堂裏の噴水に在ったものを移設。


イメージ 2本堂(観音堂)
昭和33年(1958)再建 鉄筋コンクリート造
屋根瓦はチタン製で耐震化を図っている。
本堂内は外陣と内陣に区切られている。


イメージ 3正面入口の大提灯
本堂は南に面し、正面に懸る大提灯には「志ん橋」と書かれ、東京新橋組合から奉納されたもの。
     提灯に 釣鐘負ける 浅草寺  
              (「柳多留拾遺」3)



イメージ 5内 陣
外陣と内陣とは網で仕切られている。、
網が少し目障りだが内陣の様子が良く分る。
しかし、一般参拝者も内陣に入ることができた。
中央正面の宮殿には絶対秘仏聖観世音菩薩、その前に慈覚大師円仁作の秘仏お前立ち本尊聖観世音菩薩を奉安。
その左右に梵天、帝釈天が立ち、左奥に愛染明王、右奥に不動明王が奉安されていた。
内陣にて「南無観世音菩薩」と合掌

坂東33観音札所第13番
ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草に 参る身なれば

江戸古川柳 江戸自慢 十三番が これくらい (「誹風柳多留」78)
            

イメージ 4外 陣
外陣は土間で、正面上の額は、
深見玄岱筆で「施無畏」と記されている。



イメージ 6龍の図
外陣天井中央には川端龍子画の「龍の図」が掲げられている。


イメージ 7 イメージ 8
                             天人の図
「龍の図」の左右には堂本印象画の「天人の図」が掲げられていた。

イメージ 9 イメージ 10
                              花の図
「龍の図」、「天人の図」を挟むように「花の図」が掲げられていた。

「当寺観音の霊像は 人皇参拾四代推古天皇の御宇、進(土師)の中臣といふ人あやまれる事ありて
此処に左遷せらる。
その臣檜熊・浜成・武成といふ三人の兄弟、主人の跡をしたひ来、中臣につかへて漁をいとなむ。
推古帝参拾六年戊子三月十八日、三人の兄弟宮戸川の沖に網をおろすに、あやしきものかかれり。
月かけに見やれば観音の佛体なり。 草をむすびて、此像を安置す。
その翌日近辺の草刈り童十人つれて朝草を刈りに出る。草陰より光明かくやくたり。
おどろき見るに大悲の像あり。
かくの所へ三人の者来て、しかじかの事をかたる。
おのおの奇異のおもひをなし、藜(アカザ)を柱として仮の草堂をむすびて尊む。此所今の一の権現也。
藜を以って作れるによりあかざ堂といふ。
今またこれをあやまりてあかん堂といふなり。」(菊岡沾凉「江戸砂子」)

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