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トはなしながら随身門をくぐりて観世音を詣で、東谷の石段を下りて三社の方へ歩行、宮戸川 (隅田川)の床机に休らふ。 此時すでに巳の刻の鐘音、弁天山より告渡り、炎暑堪がたくして、 奥山の樹下茂り、枝に涼風を待人のみぞ多かりける。(為永春水「春色梅美婦弥(シュンショクウメミブネ)」) 浅草寺本堂(観音堂)、浅草神社と過ぎた東に、重文の二天門が建っている。 浅草寺の東門であるが、江戸時代を通じて、本堂の西側、今の淡島堂辺り、に建てられた東照宮の随身門 と伝えられ、2随身像(豊岩間戸命、節岩間戸命)が安置されていた。 明治初年の神仏分離令によって2随身像は浅間神社に移され、替わって仏教を守護する四天王の内、持国 天、多聞天の2天王像が安置され、名称も二天門と改称された。 太平洋戦争では門は戦災に遭わなかったが、皮肉にも2天王像は疎開先で焼失した。 現在の2天像(持国天、増長天)は昭和32年(1957)上野寛永寺の厳有院殿(4代将軍家綱)霊廟の勅使門から 移されたものである。 なお、浅草寺の東照宮は、元和4年(1618)建立されたが、寛永8年(1631)と寛永19年(1642)の火災によっ て、浅草寺の他の堂宇と共に焼失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山の移されたが、随身門は類焼を免 れが、慶安2年(1649)再建された。それが現在の二天門である。 二天門から本堂(観音堂)および大提灯が見える。 二天像 四天王の内増長天(左)、持国天(右)で、京都七条の仏師吉田兵部が江戸時代初期に制作したもの |
関東紀聞
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