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和歌山県北部を流れる紀の川中流に北岸に宝亀元年(770)大伴孔子古(オオトモノクジコ)によって開創された粉河 寺は、山号を風猛山(フウモウサン)と号し、粉河観音宗の総本山である。 パンフレットによれば、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ケ坊、東西南北4km余りの広大な境内地があり、 寺領4万石を有していたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の兵乱に遭い、威容を誇った堂塔伽藍も焼土と化 し、多くの寺宝が殆ど焼失した。 その後、紀州徳川家の保護や信徒の寄進によって徳川時代中期に現在の諸堂が完成した。 本堂の前庭には、その前の広場との高低さを処理する為の土留めとして、又広場からその雄大な本堂を仰 ぎ見る前景として石組みで築かれた日本庭園が広がっていた。 本堂に入る。 本尊を安置する二重屋根の正堂と礼拝の為の一重屋根の礼堂とが結合した構成をもつ複合佛堂形式だ。 五木寛之は、この本堂を、次のように評している。 「たくさんの人が寺を訪れるのは、ひとつに、現代建築がつまらなくなってきているからでは ないだろうか。 都市を歩いても、どこを見ても同じようなコンクリートの白い建物や、単純な直線ばかりだ。 それに対してこのようなバロック的な、あるいは装飾的な造型の様式にものすごく強いインパクト を受ける。」(「百寺巡礼」54粉河寺) 礼堂には、正面に掛け仏が掛けられ、多くの額が掲げられ、天井には多くのお札が張られていた。 本尊は須弥壇下地中深く安置され、お前立ちも秘仏として厨子に安置されているとのことだ。 そこで、先ず礼堂で合掌し、次いで内陣背面に安置してある千手千眼観世音菩薩「裏観音様」に合掌し、 最後は須弥壇正面のお前立ちを納めた厨子に合掌した。 須弥壇には厨子を囲むように左右に28部衆と風神雷神が安置されていた。 また、正堂には四天王像、閻魔大王像などの諸仏、徳川吉宗寄進、左甚五郎作の「野荒しの虎」(夜な夜 な抜け出し田畑を荒らしたので眼に釘が打たれている)などが安置され、拝観することができた。 御姿が見えない観音様を参拝した後、再び境内を巡った。 粉河寺庭園 本堂の擁壁を兼ねて築かれた石組の前庭は桃山時代 上田宗固の作庭とされる。 前広場から雄大な本堂を仰ぎ見る前景となっている。 粉河寺庭園 枯山水庭園で、用いた紀州石は雑賀崎の青石(緑泥片岩)、琴浦の紫石(紅簾片岩)、竜門山の竜門石(蛇紋石)の名石を用いている。 本 堂 享保5年(1720)再建 江戸時代中期の欅材による代表的建築、 重文 本尊を安置する二重屋根の正堂と礼拝の為の一重屋根の礼堂とが結合した構成をもつ複合佛堂形式。 西国三十三箇所の中では最大 本尊は千手千眼観世音菩薩像は一寸八分、須弥壇の厨子の下の光明井に安置されているとのこと。 西国三十三箇所第3番札所
巡礼の霊場を「札所」と呼ぶ由来は粉河寺から発しているようで、それについて、白洲正子がその著 で次の様に紹介していた。 花山院が熊野よりの下向のついでに粉河寺におよりになり、 「昔より 風にしられぬ ともし火の 光にはるる 長き世の暗」の歌を木札に書いて仏前に供えられ た。 粉河寺は西国第3番の霊場で、花山院が木札を捧げたことから、参詣のしるしに札に名前を書いて奉納す る習慣が生まれ、以来巡礼の霊場を「札所」と呼ぶようになった。(「古典の細道」6.西国巡礼の祖ー花山院)
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近畿紀聞
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