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島に着き、売店街を通り抜けると、「竹生島神社」という扁額を掲げた石造りの鳥居があり、上に向って 急な勾配の石段が続いている。 ここを過ぎて、次の鳥居で右に折れた先に建つ宝厳寺観音堂・舟廊下を抜けると都久夫須麻神社 (ツクブスマジンジャ 竹生島神社)の本殿に出た。 本殿前(湖に方向)には龍神拝所(現在修理工事中のため素屋根で覆われている)、その先湖に突き出た岸壁 の先端に龍神鳥居が建っている。 また、本殿に向って左手前には、招福弁才天、弁才天のお使いである白蛇を祀った白巳大神を祀った社、 琵琶を奏でる姿の弁天様の図柄の絵馬の棚が並んでいた。 都久夫須麻神社(ツクブスマジンジャ)は雄略天皇3年(420)浅井姫命を祀る小祠を起源とし、延喜式にも名が載る 由緒ある神社である。 しかし、その後長い間神仏混淆の流れの中で弁才天と習合されていたが、明治の神仏分離令により、それ までの弁才天社が都久夫須麻神社(ツクブスマジンジャ 竹生島神社)として宝厳寺と分かれた。 しかし、今猶、宝厳寺とは不可分の関係で霊地竹生島を形成している。 この手前で右手に折れていくと、竹生島神社の龍神拝殿の前に出る。 石段の先には宝厳寺の鳥居があり、165段の急な傾斜の石段を上ると法巌寺本堂(弁才天堂)に着く。 祭神:浅井姫命、市杵島姫命、宇賀福神、龍神 入母屋造、桧皮葺 国宝 慶長7年(1602)豊臣秀頼が伏見城「日暮御殿」を移築改修したものといわれている。 正面の両開き桟唐戸、長押上、壁には菊、牡丹などの極彩色の彫刻が施されている。 龍神拝所から眼下の龍神鳥居に向ってなげる「かわらけ(素焼きの小皿)投げ」が人気。 2枚1組で、1枚」には名前を、もう1枚には願い事を墨書し、鳥居に向って投げる。 鳥居の間を通れば願い事が叶うと謂われている。 龍神拝所と龍神鳥居 龍神拝所は素屋根覆われている。それでも窓の様な所から「かわらけ投げ」が出来る。 鳥居の間を通れば願い事が叶うと謂われているが、かわらけを鳥居まで投げるのには相当力が必要。 多くのかわらけの破片が、鳥居の手前に落ちていた。 平家物語(巻第7 竹生嶋詣)では、寿永2年(1183)4月木曾義仲を討つ平家軍の副大将・平経正(タイラノツネマサ)が、進軍途中に、竹生島に詣でたことが述べられている。 経正が琵琶の名人だと知る島の僧に所望されて、この拝所で「上玄石上(ショウゲンセキショウ)」という琵琶の秘曲を弾いたところ、神も感激したのか、経正の袖の上に白龍が現われた、とある。 本殿に向って左前方にある小祠 商売繁昌に神様として霊験あらたかと信じられており、日本五弁天の一つと説明が記されていた。 因みに五弁天とは、安芸の厳島、大和の天川、近江の竹生島、相模の江ノ島、陸前の黄金山 弁才天のお使い なかなか綺麗な図柄であった。 「平家物語」巻第七 竹生嶋詣より 大将軍維盛、通盛はすすみ給へとも、副将軍経正、友度、清房などは、いまだ近江国塩津、貝津にひかへたり。 そのなかにも経正は、詩歌管絃に長じ給へる人なれば、かゝるみだれの中にも、心を澄まし、湖の端にうち出て、はるかに奥なる島を見渡して、供に具せられたる藤兵衛有教を召して、「あれをばいずくといふぞ」と問はれければ、「あれこそ、聞え候ふ竹生島にて候へ」と申す。 「げにさる事あり。いざや参らん」とて、藤兵衛有教、安衛門守教以下、侍五六人召し具して、小船に乗り、竹生島へぞわたられける。 比は卯月中の八日の事なれば、緑に見ゆる梢には、春の情を残すかとおぼえ、澗谷の鶯舌の声老いて、初音ゆかしきほとゝぎす、折り知り顔に告げ渡り、まことにおもしろかりければ、急ぎ船よりお り、岸にあがつて、この島の景気を見給ふに、心も言も及ばれず。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ゐ待ちの月さし出て、海上も照り渡り、社檀もいよいよかがやきて、まことにおもしろかりければ、常住の僧ども、「聞ゆる御事なり」とて、御琵琶をまいらせたりければ、経正是を弾き給ふに、 上玄石上の秘曲には、宮のうちも澄み渡り、明神感応に堪へずして、経正の袖の上に、白龍現じて見え給へり。 忝くうれしさのあまり泣く泣くかうぞ思ひ続け給ふ。 ちはやぶる 神にいのりの かなへばや しるくも色の あらわれにける されば 怨敵を目前にたひらげ、凶従を只今攻め落とさん事の疑なしと悦んで、又船にとりのって竹生島を出られける。 |
近畿紀聞
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