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高月観音堂の次に訪れたのは、国宝十一面観音を安置する渡岸寺(ドガンジ)観音堂であった。 JR高月駅から徒歩で10分程度の所にあり、勿論自転車だからもっと早い。 渡岸寺観音堂の近くにある慈雲山向源寺(コウゲンジ)という真宗大谷派末寺に所属する寺である。 ここに安置する国宝十一面観音像は近江地方の数多い仏像の中でもひときわ高い人気を誇っている。 仁王門、それから一直線の伸びる参道の先に本堂が、その左隣に慈雲閣(収蔵庫)が建つ。 本堂前の参道の右側に戦乱時、仏像を地に生め護ったという「御尊像埋伏之地」という塚があり、ここを 小説「星と祭」等で紹介した井上靖の文学碑が建っていた。 渡岸寺観音堂の由来は古く、天平8年(736)都に疱瘡が大流行し、死者が相次いだので、聖武天皇は泰澄に 除災の祈祷を命じられた。 泰澄は勅を奉じ、祈願をこめて十一面観音を刻み、一宇を建立して息災延命・万民豊楽の祈祷をおこなっ い、その憂いを絶った。 以降病除けの霊験あらたかな観音様として敬仰せられた。 延暦20年(801)最澄が桓武天皇の勅を奉じて七堂伽藍を建立した。 しかし、時を経るにしたがい寺運は衰え、元亀元年(1570)浅井・織田の戦火のため、堂宇は悉く烏有に帰 し、寺領も没収せられて廃絶した。 この兵乱で住職の巧円を始め、住民たちが観音像を始めとする諸仏を救出、土中に埋蔵して難を免れた。 その後向源寺を建て諸仏を護ってきたという。 本堂及び収蔵庫(慈雲閣)に安置されている仏像は、撮影禁止の為、残念ながら写真で紹介できないが、 国宝十一面観音立像は像高約2m、天平時代の作の檜一木造で、左手(向って右)に宝瓶を持ち、 少し長めの左手は垂下し、腰をややひねった肉付き豊で官能的プロポーションであった。 井上靖も、その著で渡岸寺十一面観音を、次のような感慨を述べている。 胸から腰へかけて豊な肉付けも美しいし、ごく僅かにひねっている腰部の安定した量感もみごとである。 顔容もまたいい。体躯からは官能的な響きさえ感じられるが、顔容は打って変って森厳な美しさで 鎮まり返っている。 頭上の仏面はどれも思いきっておおぶりで堆く植えつけられてあり、総体の印象は密教的というか、 大陸風というか、頗る異色ある十一面観音像である。(井上靖「美しきものとの出会い」6渡岸寺観音堂) 文政8年(1825)制定された江州伊香西国33観音霊場の第5番札所
仁王像 像高約1.94m 榧造 平安時代の作と思われる。 本 堂 大正14年(1925)再建 須弥壇に阿弥陀如来坐像(像高1.4m 木造)を安置 慈雲閣(収蔵庫)が出来るまでは慈雲閣(収蔵庫)の諸仏はここに安置されていた。 井上靖は「星と祭」で、その当時の様子を次の様に描いている。 その内陣の正面に大きな黒塗りの須弥壇が据えられ、その上に三体の仏像が置かれてある。 中央が十一面観音、その両側に大日如来と阿弥陀如来の坐像。 二つの大きな如来像の間にすっくりと細見の十一面観音が立っている感じである。(「星と祭」宝冠) 隣の慈雲閣(収蔵庫)では上述の国宝十一面観音立像のほか、大日如来坐像(木彫、平安時代、1.5m、重文) 十一面観音立像(木彫、像高0.4m)などが拝観できた。 巧円が門信徒と供に観音像を始め多くの仏像をこの地に埋めて災禍を逃れたと伝えられる。 門前を流れる用水路の傍に生えている大欅 この辺りでは村の出入口など要所に、大木、老木、塚、岩を土地を護る神宿すところ「野神さん」として注連縄を張り祀っている。 8月16日には野神祭が盛大に行われるそうだ。 |
近畿紀聞
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