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播磨国分寺跡、牛堂山国分寺から、距離にして約1km西にある御着城址を見ておこうと思った。 牛堂山国分寺の北側を東西に走る国道2号を明石、神戸方向にぶらぶら歩いた。 9月に入ったと言うのに真夏並みに暑い。 15分ほど歩いた時、北側に「御着城祉」の碑が建つ御着城公園があった。ここだ!! 御着城は茶臼山城、天川城とも呼ばれ、播磨守護・赤松氏の家臣・小寺氏の居城であった。 永正16年(1519)小寺政隆が築城、天正7年(1579)羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされる。 昭和52年(1977)〜54(1979)年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ば に大・中の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われていたことが判明した。 現在御着城址の中央を東西に国道2号が走り、本丸跡には御着城公園、市出張所、公民館となってい るほか、西側に黒田家廟所があり、国道の南側は小公園となっていた。 御着城公園には復元された白壁と石垣、黒田官兵衛顕彰碑、天川橋があり、国道の南側の小公園の片隅に 小寺大明神と「天川城跡 小寺城主の奥都城」の碑があった。 奥都城(オクツキ)とはお墓のことだ。 公園の木陰の下に建っていたが、周囲は明るい日差しが降り注いでいた。 黒田官兵衛孝高(ヨシタカ 如水)は元は小寺氏の家老で、姫路城の城主だった。 天正8年(1580)羽柴秀吉の播磨平定の際、姫路を秀吉に譲り国府山城(妻鹿)に移った。 その後、秀吉の中国攻め、四国・九州征伐などで軍師として活躍した。 天正15年(1587)中津城(大分県中津市)を与えられた。 孝高の嫡男・長政は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功で筑前52万3千石が与えられ福岡城に移った。 御着城堀跡に移築保存されている石橋。 天川橋は、姫路藩が文政11年(1828)この地より南西200mの旧西国街道の天川に架橋した総竜山石製の太鼓橋。 全長16.6m 幅4.45m 橋脚5本 昭和47年(1972)の出水で崩れたため、撤去し、昭和53年(1978)現在地に移設保存したもの。 黒田家廟所 黒田官兵衛孝高の祖父・重隆(シゲタカ)と生母(明石氏)の二人を祀っている。 享和2年(1802)資材を九州から運んで造られた。回りは地元産の竜山石の石塀となっている。 御着城主であった小寺氏一族と御着城に関係する人々を祀っている。 |
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