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麓から急峻な山道の参道を30分ほどかけて上ると本堂の前に来た。 交通不便な山中の寺院にも関わらず、西国33か所観音霊場第4番札所として賑わっていた。 施福寺は、山号を槇尾山(マキノオサン)と号する天台宗の寺院で、古くは槇尾山寺と呼ばれた。 本尊は弥勒菩薩(札所本尊は十一面千手観音)である。 寺に伝わる「槇尾山大縁起」によると、欽明天皇の命で播磨国の行満上人が創建し、本格的に開いたのは 摂津国の僧・法海であるという。 光仁天皇の御世の宝亀2年(771)当時槇尾山寺に住していた法海の下に一人 のみすぼらしい修行僧が来た。 「夏安居(ゲアンゴ)」の期間過ごさせてくれと頼むので、客僧として寺に置いた。 予定の期間が終わって寺を去る際、帰りの路銀を乞うたが寺僧たちはそれを拒んだ。 すると、その僧は「この寺は見かけは立派だが、真の出家者はいない。この様な寺はいずれ滅び去る。」 と言って去って行った。 驚いた法海がその僧の後を追うと、僧は大津浦(現在の泉大津市)の海上を沈みもせず歩いて、やがて紫雲 に包まれた千手観音が示現した。 これを見た法海は、あの僧は己らを戒めるために現れた観音の化身であったと悟り、目にしたままの姿の 千手観音を像に刻み安置した。 その後、空海がここで剃髪出家した寺として、真言密教の寺として整備され、仁和寺の末寺となった。 鎌倉時代から室町時代にかけては寺盛は高まり、最盛期には970もの坊舎が山中にあったといわれる。 しかし、南北朝時代には、南朝方に与したため足利の世では衰え、さらに天正9年(1581)織田信長の焼き 討ちをうけて衰亡した。 慶長8年(1603)豊臣秀頼の援助により本堂などの伽藍が再建された。 江戸時代には徳川家の援助を受け、寛永年間(1624〜1644)頃に天台宗に改宗、寛永寺の末寺となった。 弘化2年(1845)山火事で山門(仁王門)を除く伽藍を焼失し、現在の本堂などはその後再建されたものであ る。 安政4年(1857)再建 寄棟造 銅板葺 内陣には十一面千手千眼観世音菩薩像、弥勒菩薩像、文殊菩薩像を安置する3つの厨子、 後堂には馬頭観音像 側堂には弘法大師像、不動明王と二童子像、弁財天像 などを安置している。 外 陣 赤い大提灯つり下がり 多くのお札や額が納められている。縁の隅には賓頭廬尊者が座っていた。 三つの厨子が安置され周囲を四天王が守っていた。 厨子には、左より十一面千手千眼観世音菩薩像、弥勒菩薩像、文殊菩薩像を安置しているとのこと。 西国33か所観音霊場第4番札所
須弥壇の裏、後堂にはお前立の馬頭観音像が安置されていた。 白馬像 馬頭観音が安置されている壇の上の欄間には白馬像が彫られていた。 西国巡礼中の花山法皇が施福寺を訪れようとした時、道に迷った。 その時、馬の嘶きが聞こえ、それを頼りに無事に寺に着くことができた。 すると、その馬がにわかに馬頭観音に姿を変えたという。 西国33か所観音堂 本堂前の右手(向かって左)に建つお堂。33か所の御本尊を祀っている。 |
摂河泉風土記
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