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本法寺は,前稿で記したように、織豊時代から江戸時代初めにかけての偉大な芸術家二人が関わった。 繰り返すが、一人は長谷川等伯、もう一人は本阿彌光悦である。 涅槃会館(宝物展示館)にて、写真版による原物大のレプリカではあったが、等伯の大涅槃図を見ることが できた。(本物は、日を限って公開される。今年は3月14日から4月15日) 縦10m、横6mと大きなもので、1、2階吹き抜けの展示場につるされていた。 画帳などで見るものからは想像ができない迫力のあるものであった。 写真撮影禁止であったし、例え撮影できたとしても、実物大の迫力はとても伝えることができない。 {蛇足かも知れないが、泉涌寺の涅槃図(縦約16m、横8m 江戸中期に明誉古礀上人の筆)や東福寺の涅槃 図(縦約12m、横6m 室町時代 明兆の筆)も大きかった。} 本阿彌光悦については、彼の作庭と言われる巴の庭がある。 巴の庭は書院の東側から南側に曲がるかぎ型で、室町時代の書院風枯山水の影響を残す名庭で、名勝に指 定を受けているそうだ。 経蔵は天正16年(1588)建立 宝蔵と共に天明の大火免れた本法寺最古の建物 扁額は享保2年(1717)本覚院宮(宝鏡寺第22代門跡、徳厳禅尼)の筆によるものとのこと。 ここより拝観受付する。 涅槃会館(宝物展示館)の前庭 正面の門は唐門 書院とその上段の間 書院は、紀州徳川家寄進によるもので、総檜造り 文政11年(1828)再建 上段の間をはじめ、18畳が3間ある。 明治元年(1868)紀州藩主徳川茂承は、新政府の疑惑を解くため、ほぼ一年間ここに滞在した。 巴の庭 書院の周囲を鉤形に囲む。写真は東側ほぼ全域 過去、現在、未来を表す3つの築山がそれぞれ巴に渦を巻く様に作られている。 巴の築山は言われればそんな感じがする。どれが過去でどれが未来か聞き漏らした。 書院の縁側近くには、半円を二つ組み合わせた円形石と、切石による十角形の蓮池が配置されている。 これは、「日」、「蓮」を表現したと言われている。 朱色の建物は涅槃会館(宝物展示館)。 巴の庭 書院東側の築山 なお、文禄慶長の役(1592〜1598)は秀吉の死によって終結したが、戦後処理で、徳川家康の真意を探るた め慶長4年(1604)朝鮮より松雲大師惟政を派遣してきた。 彼が入洛した際、本法寺に滞在したという。
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京洛逍遥
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