ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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地下鉄「今出川」の出口から今出川通りを西に歩く。

最初に室町通りと交差する。その東北角(美容院の角)に「従是東北 足利将軍 室町第址」と刻ま

れた石標が建っていた。

すなはち、南は今出川通り、北は上立売通り、東は烏丸通り、西は室町通りに囲まれた地域に、「花の御

所」とも呼ばれた、足利第三代将軍・義満が造営した「室町殿」があったのだ。

その室町第址と言われる区域の一画に大聖寺(ダイショウジ)があった。

白壁の塀をめぐらせて、格式高く凛と建つ。

大聖寺は山号を「岳松山」と号する臨済宗の尼門跡寺院である。

光厳天皇の典侍(テンジュ)であった日野宜子は、義満によって、室町殿に迎えられた。

没後住まいの岡松殿は寺に改められ、宜子の法名「大聖寺殿無相定円禅定尼」に因んで大聖寺とされた。

開基は宜子の姪・玉厳悟心尼。

室町時代から江戸時代末期まで内親王が入寺した。

16世紀後半、正親町天皇の皇女が入寺の際には「尼門跡第一位」の綸旨を受け尼衆の触頭(フレガシラ)とな

った。

開基の後は、移転を繰り返したが、元禄9年(1696)岡松殿址である現在地に戻り、現在に至っている。

普段は非公開であるが、今年は3月1日から18日の間、27年ぶりの公開をしている。

本堂「貴人の間」の障壁画、「宮御殿」とも呼ばれる書院襖絵、歴代皇女の遺愛の御所人形や枯山水の庭

園などを拝観したが、内部は写真撮影禁止だったのは残念だった。

正門から玄関までの様子だけを撮った。


イメージ 1 「室町第址」石標
「従是東北 足利将軍 室町第址」と刻まれていた





イメージ 2 大聖寺正門
大聖寺は華道、煎茶道の家元である。
向かって左柱に
華道 岳松御流 煎茶道 永皎(エイコウ)」の表札がかかっていた。






イメージ 3 正門から玄関まで
塀越しに、昭和18年(1943)東京青山御所より大正天皇の后・貞明皇后の御殿を移築した本堂の屋根が見える。
北側の外壁が煉瓦色の建物は同志社大学寒梅館。



イメージ 4 「花の御所」碑
正門から入って右手、築地塀際に建っていた。
足利義満が天授4年(永和4年 1378)に造営始めた邸宅は邸内には鴨川から水が引かれ、各地の大名から献上された四季折々の花木を配されたことから「花の御所」と呼ばれた。
しかし、応仁の乱で全焼し、九代将軍義尚(ヨシヒサ)が文明11年(1479)再建したが翌年に焼失した。



イメージ 5 花山院慈薫尼歌碑
左の塀際に建つ
阿弥陀如来をあらわす阿字石に第27世門主花山院慈薫尼の歌
「九品佛 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」
が刻まれている

  補  足

今日、足利氏による幕府は「室町幕府」とよばれているが、足利将軍の本拠は、常に室町の「花の御所」にあったわけでない。
歴代の将軍の屋敷が幕府とされたのである。
足利尊氏は二条高倉に、二代将軍義詮(ヨシアキラ)は三条坊門に屋敷を構えた。
四代将軍義持は父・義満の没後に義詮時代の三条坊門に移っている。
六代将軍義教や八代将軍義政は本拠を「花の御所」に戻している。
しかし、応仁の乱で「花の御所」が焼失し、九代将軍義尚(ヨシヒサ)が文明11年(1479)再建したものの翌年焼失した。
義尚没後将軍職をめぐる足利家の内紛が盛んになり、将軍の屋敷は京都を転々と彷徨った。

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