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寺之内から堀川通りの西側に渡った。 この辺りから西一帯は西陣と呼ばれる。 堀川通りをうろうろしていたら、「山名宗全宅跡」の標柱が建っていた。 側にこのあたりの案内地図があったので見るとこの辺りに山名宗全の邸宅があったようだ。 標柱前の細い道を西に向かうと民家と民家の間にはさまれて「山名宗全旧跡」の碑が建っていた。 碑の側の説明板によると、 山名宗全は応永11年(1404)但馬(タジマ)国出石(イズシ)に生まれ、名を持豊と言った。 後に出家して宗全と称したが、赤ら顔であったので「赤入道」とも呼ばれた。 但馬をはじめ12か国の守護職を兼ね、当時は全国は60余州あったことから「六分の一殿」とも呼ばれた。 子供がいなかった室町幕府8代将軍・足利義政は弟・義視(ヨシミ)を後嗣にしようとしたが、その後義政の夫 人・日野富子に義尚(ヨシヒサ)が生まれたため、将軍職をめぐる後継者争いが起こり、守護大名のお家騒動も 絡み合い「応仁の乱」へと発展した。 義尚を擁する宗全は、この邸宅を本陣として、室町今出川の「花の御所(足利家の住宅・室町幕府)」に陣 を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて11年間に及ぶ戦いを繰り広げた。 このため京の町の大半は焦土化した。 この情景を詠んだ歌に次のようなものがある。 「なれや知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は」 飯尾彦六左衛門尉 この地にあった山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明5年(1473)陣中で没した。 この辺り一帯を「西陣」と呼ぶのは、山名宗全率いる西軍が陣を置いたことによる。 なお、宗全の墓は南禅寺の真乗院にある。 「山名宗全旧跡」碑 応仁の乱勃発の地、御料神社 : 応仁の乱勃発地の碑 「花の御所跡に建つ尼門跡寺院・大聖寺 : 「室町第址」標柱 「花の御所」碑 皇室ゆかりの人形の寺・宝鏡寺 : 百々橋の礎石
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京洛逍遥
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