ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

東海紀行

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名古屋城から約3㎞東の徳川園に至るエリアは、江戸から明治、大正へと続く名古屋の近代化歩みを伝える多くの建物等の貴重な歴史遺産が残されている。
 
名古屋市ではこのエリアを「文化の道」と名付け建築遺産の保存・活用が進められている。
 
その中で撞木町、主税町一帯が町並み保存地区になっているので行ってみた。
 
単純に名古屋城から、南側の出来町通りを東に1㎞ほど向って歩けば済むことであった。
 
だが、どう気が狂ったのか、バスに乗ったら、南方向の「栄」に行ってしまい、そこから、広小路通りを東に「東新町」まで歩き、そこから国道41号線を北に向かって歩くと言う、いわば「コの字に歩く」という無駄なことをしてしまった。
 
それでも、なんとか 「町並み保存地区」に入った。
 
東西方向の露地に入り東に向かって歩いていると、風情のある建物が続き、やがて陶磁器商として活躍した井元為三郎邸と言われる「文化のみち撞木館」に着いたので入ってみた。
 
「文化の道撞木館」は、井元為三郎が大正末から昭和初にかけて建てた邸宅で武家屋敷時代、区割りそのままの敷地に、和館、洋館、東西2棟の土蔵、茶室庭園が保存されている。
 
旧食堂・応接室は喫茶室となっており、和室茶室などはサークルなどの貸室となって、市民に親しまれている。
 
 
 
イメージ 1文化のみち撞木館入口
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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喫茶室
洋館一階の応接室は喫茶室となっており、
訪れた人の憩いの場となっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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庭園
洋館2階より望む。
左植えは茶席「撫松庵」
右は和館
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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庭園
洋館南の玄関横から庭園に入る
左は洋館のテラス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4イメージ 5
 
                           茶席「撫松庵」
昭和8年(1933)頃当家に移築されたと伝えられている。
旧蔵者など詳しいことは分かっていないが、二畳半中板向切の間取りは大変珍しいもの。
床の間が枡床であるから、表千家6世・覚々斎原叟宗左の好みと言われている。
移築の際、手直しが施されたと思われるが、元々は幕末あるいは明治初年の建築であると言われている。
因みに「撫松」とは、井元為三郎の養子・井元松蔵の号
 
イメージ 7
 
 和館
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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和室
多くの和室はサークルなどで賑わっていた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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西土蔵
東西に建つ2棟のうちの1棟
貸室として開放している。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明治6年(1873)に生まれた井元為三郎は、16歳で有田系の商店に入り、明治30年(1897)24歳で独立、撞木町に隣接する飯田町に井元商店(現井元産業株式会社)を構えた。
明治40年代には、サンフランシスコに貿易会社を設立、大正に入ると、シンガポール、ビルマにも進出して、陶磁器いがいに医薬品や雑貨を扱うようになった。
大正13年名古屋陶磁器貿易商工同業組合の組合長に就任し、加工問屋「五人衆」の一人に数えられるなど、陶磁器業界の重鎮として活躍した。
 
 
 
 
 
 

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