ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

北陸紀行

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東尋坊の食堂で昼食をとると共に東尋坊見物中溢れていた汗を抑える。

そうこうする内に、芦原温泉経由丸岡行きのバスが来たので乗り込んだ。

在地の人を除いたら、観光客は:)一人だった。

およそ1時間乗り、運転手さんの勧めで「丸岡城下」バス停で下車した。

下車すると高台に建つ丸岡城が姿を見せており、丸岡城へ行く途中、江戸時代風の時計台があったり、

城郭風の建物の「城のまち会館」があったりして城下町の雰囲気を演出していた。

天正3年(1575)織田信長は北陸地方の一向一揆の平定を期して(現丸岡城の東4kmにある)豊原寺を攻

略した。

信長は柴田勝家に越前の支配を委ね、勝家の甥・勝豊に豊原へ派遣し城を築かせた。

天正4年(1576)勝豊は交通の利便性などから、豊原城を丸岡に移した。

これが現在の丸岡城である。

天正10年(1582)柴田勝豊は長浜城主になり、後は安井左近家清、青山修理亮宗勝、青山忠元、今井盛次等

が一時支配した。

慶長18年(1613)本多成重(「鬼作左」の名で知られる本多作左衛門重次の子)が4万3千石の城主として入

り、以下4代の居城となった。

現在記録に残る城郭はこの頃完成したと思われる。

平山城で、内堀を巡らし、外郭に侍屋敷を配し、河川を利用した外堀を有し、寺院民家を包容した。

しかし、4代重盛の時、いわゆる「丸岡騒動」と呼ばれるお家騒動により、本田家は改易された。

元禄8年(1695)有馬清純が入封し、以後明治維新に至るまで、8代160年間に渡って有馬家が領有した。

明治3年(1870)の廃藩置県後官有になり、更に民有になったが、明治34年(1901)町公民館として丸岡町

町有になった。

その間に周濠は埋められ、城門、塀、館等の建物は売却のため譲渡され、現在わずかに天守閣とその付近

の石垣の小部分を残すだけとなった。

昭和9年(1934)国宝に指定されたが、現在は重文である。

昭和23年1948)6月28日の福井大地震により倒壊したが、昭和26年(1951)復元に着手した。

昭和30年(1955)復元完成、用材は80%近くを古材を使用したという。

平成15年(2003)外郭の修理工事を行い現在に至る。

丸岡城は、江戸時代以前からの天守閣が現存する12城の一つで、その中で最古の様式のものであるとの

こと。

なお、江戸時代以前の天守が現存する城は次の12城だ。

弘前城、  ○松本城、  ○犬山城、  ○彦根城、  丸岡城、 ◎姫路城、  備中松山城
  松江城、  宇和島城、  伊予松山城、  丸亀城、  高知城
国宝:◎及び○  世界遺産:◎ 


城の周囲にはソメイヨシノが植えられており「霞ケ城公園」となっていて、さくらの名所100選にも選ばれ

ているそうだ。


イメージ 1   町筋の時計台




イメージ 2   城のまち会館
別名:丸岡公民館
平成14年(2002)完成




イメージ 3

                                  丸岡城
入口に麓に「国宝 霞ェ城」の標柱が建つ
昭和17年(1942)建立されたもの。
霞ケ城は丸岡城の別名
本文で述べたように現在は重文である。




イメージ 4

                                 丸岡城天守閣
天守閣の規模は東西12.6m、南北10.8m 屋根は二重、内部は三重
外観は上層が望楼を形成し、通し柱を持たず、初層は2,3層を支える支台を成している。
屋根は福井市足羽山から産出する笏谷石の石瓦で葺き、基礎の石垣は高さ6m余りの野面積み
外壁は柱を外に見せる塗、最上階の三階の周りに欄干をつけた縁側をつけた古風な造り
三階は天井板が張られず、屋根の骨組みが見られた。




イメージ 9   石製の鯱
天守閣入口前の石段側に置かれていた。
元来木彫り銅板張りであったが、昭和15〜17年の修理の際、銅板不足から、石製の鯱に改めた。
昭和23年の福井大地震により胸から落下し、現在の形で残っている。
現在の天守閣に乗っている鯱は昭和27〜30年の修理時のもので、木彫り銅板張りに復元したものである。




イメージ 5   一筆啓上書翰碑
天守閣石垣下に建つ。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と刻まれている。
この書翰は、徳川家康の腹心で「鬼作左」の勇名をとどろかせた本多作左衛門重次が陣中から家族にあてたもの。
この文面は、簡潔にして要領を得た模範的な文例として知られている。
お仙とは嫡男・成重の幼名
この石碑が縁で、日本一短い手紙「一筆啓上賞」が行われている。



イメージ 6   お静慰霊碑
柴田勝豊が築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れた。
そこで人柱を入れることになり、片目のお静が、一人の子を侍に取り立てることを約束に人柱となった。
それから、ほどなくして天守閣は完成した。
しかし、勝豊は長浜に移封され、お静の子は侍にしてもらえなかった。
お静の霊はこれを恨んでか、毎年、年に一度の藻刈をやる卯月の頃になると、春雨で濠に水があふれ人々を困らせた。
人々は「お静の涙雨」と呼び、小さな祠を建てて霊を慰めた。




イメージ 7   雲の井
柴田勝豊がこの地に城を築いた頃は、一揆の残党がしばしば攻撃をしてきた。
しかし、そのたび毎に、この井戸から大蛇が現れて城に「かすみ」をかけて城の危機を救ったといわれている。
この伝説から、別名「霞ケ城」と呼ばれるようになった。
現在も春先などに、すっぽりとかすみに覆われた「霞ケ城」を見ることできるそうだ。



イメージ 8   歴史民俗資料翰
丸岡城の歴史の資料展示をしていた。

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丸亀城は、一度行ってみたいと考えている城です。ナイス!

2014/3/22(土) 午前 7:45 白洞


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