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「かの城の有様、三方は海によって岸高く、岩滑らかなり。 巽の方に当れる山一つ、城より少し高うして、寄せ手 城中を目の下に見下すといへども、岸絶え 地僻りて、近づいて寄すれば、城郭一片の雲の上にそばだち、遠く射れば、その葥万尋の谷の 底に落つ。」 (「太平記」巻第17 金崎の城の事) 前日は福井に泊り、昨日の疲れを癒し、今朝はホテルをゆっくり出てきた。 新田義貞の戦死場所と言われる「新田塚」や埋葬地の「称念寺」を巡ったら、無性に敦賀の「金ケ崎城 址」を訪れたくなったのだ。 体力的に問題が少しあるが、時間はある。 福井からは、普通列車でのんびり行き、10時半ごろ着いた。 何やら工事をしている敦賀駅前から周遊バスに乗り、10分弱、金ケ崎緑地で下車し10分ほど歩いた。 金ケ崎山裾へ来て、左に金崎宮の社標の石柱が立ち、右側には金前寺が建つ細道を行くと金ケ崎城址に建つ 金崎宮前に来た。 (「金崎宮」と「金前寺」については次稿以降に記す。) 金崎宮の石段を上り境内を過ぎると 「史蹟 金ケ崎城址」の石標が建っていた。 ここからは金カ崎城本丸があったという、金ケ崎山頂上(海抜86m)の月見御殿まで登って行ったが、城跡と 言っても石垣と言ったものは一切見かけなかった。 ハイキング気分でのぼった。 実は、すぐ近くで、気比大神の降臨地と言われ、戦国時代織田信長が陥落させた支城がある天筒山 (171.3m)を含めて市民憩いのハイキングコースとなっているが、今はそこまで歩く気はなかった。 新田義貞は、後醍醐天皇の命を受けて、南朝の勢力回復の為、建武3年(延元元年 1336)10月尊良(タカヨシ) 親王、恒良(ツネヨシ)親王を奉じて北陸道を下向した。 一行は、気比神宮の大宮司・気比氏治(ケヒノウジjハル)に迎えられ、その居城・金ケ崎城に拠った。 金ケ崎城は敦賀湾に突き出た金ケ崎山(86m)に築かれた山城である。 源平合戦の際、木曽義仲の進撃を防ぐため平通盛が城を築いたのが最初といわれる。 ここは、太平記に述べられているように、三方海に囲まれ岸はそば立ち岩は苔で滑りやすい。 一方の東南には天筒山(171.3m)があって城を見下ろせられるが、深い谷で遮られていて、近づくと城は 雲の上にあるようで、矢を射っても届かず谷に落ちるだけの天然要害の地であった。 しかし、足利方の高師泰(コウモロヤス)、斯波高経(シバタカツネ)らが率いる大軍の海陸からの攻撃で、約半年間の 戦いの末、延元2年(1337)3月6日遂に落城、尊良親王、新田義顕(ヨシアキ 義貞の嗣子)、気比氏治、瓜生保 (ウリュウタモツ)ら300余人の将士のことごとくが城を枕に殉じた。 恒良親王は、気比氏治の子・斎晴(ナリハル)によって舟で脱出したが、後に捕えられ京都に送られた。 その後、建武5年(延元3年、暦応元年 1338)4月毒殺されたと「太平記」は伝えている。 外から態勢を整えるため落城前に脱出していた新田義貞は、一時金ケ崎城を奪還するが、その後足利方が 越前平定することになった。 時代は下って戦国時代、元亀元年(1570)4月織田信長は越前朝倉義景討伐の軍を起した。 天筒山城、金ケ崎城を落し、越前に攻め入ろうとした時、背後の位置する近江の浅井氏が裏切ったことを 知った。 朝倉軍と浅井軍に挟撃される恐れに、窮地に陥った信長は急遽木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を殿(シンガリ)に して総退却した。 金崎宮は明治26年(1893)創建 金前寺は今の金崎宮にあったが寛文二年(1662)現在地に移った。 金崎宮の境内脇に建っていた。 頂上近くの広場に建つ。 この辺り一帯が本丸跡と言われる。 「金ケ崎古戦場址」碑より少し上ったところが月見御殿跡とわれ、武将たちが月見したと言われる。 ここからは見晴らしが素晴らしく、天候が良いと越前海岸まで望むことができるそうだ。 先端に「皇太子殿下台臨之跡」の碑が建っていた。 明治42年(1909)6月建立と裏面に刻まれているので、大正天皇が皇太子時代来られたのであろうか 眼下に小島の様な岬から恒良親王は脱出した。 人目を避けるため御衣を 巌上の松の枝に掛けて脱出したと言われる。 現在その松(絹掛の松と言われる)はない。 また、この岬を「絹掛ノ崎」という。 月見御殿より右前方に位置する 石炭炊きの火力発電所 |
北陸紀行
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