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野見神社すぐ南が高槻城跡公園だった。 高槻城跡公園は高槻城本丸跡を公園にしたもので、片隅にケルンの様な高槻城址碑があり、園内には和風 庭園が造られ、濠を模した石垣の上に高山右近の像が建っていた。 高槻城が記録に登場するのは14世紀前半に入江左近将監春則が居城としてからである。 永禄12年(1569)和田惟政が城主となったが、元亀4年(1573)その子惟長と対立した高山友照・右近父子が和 田氏を滅ぼして城主となった。 キリシタンであった右近は、広大な濠をめぐらした城を築き、場内に天主教会を建てるなど布教に努め、 天正9年(1581)にはイタリアの巡察師ヴァルニャーノを迎えて盛大な復活祭を催している。 その後、豊臣、徳川の直轄地となり、大阪夏の陣(1615)後、内藤、土岐、岡部など譜代大名が城主となっ た。 そして慶安2年(1649)永井直清が3万6千石を持って封じられ、明治時代まで13代約230年間にわたり永井氏 が藩政を敷いた。 明治7年(1874)鉄道敷設に伴って高槻城は破却され、城の石は鉄道建設に使用された。 今で遺構としてとどめるものは何もないが、本丸のあった場所が城跡公園として市民の憩いの場となって いる。 また、高槻市立第一中学およびその周辺はかっ三の丸跡で、戦前までは工兵第四連隊(中部第二九部隊)が 置かれた場所でそれを伝える碑と営門が残っていた。 城跡公園内に建つ「しろあと歴史館分館」 旧紺屋町にあった旧笹井家住宅を昭和57年(1982)移築復元し公開しているもの。 木造平屋建 江戸時代中頃築 笹井家は安永年間(1772〜1781)干物屋を開業し、瀬戸物屋を経て、米屋として今日まで続いている商家」 野見神社東数百メートル、高槻市立第一中学の北側 この辺りは旧高槻城三の丸跡だがそこに建っていた。 永井家3万6千石の城下町高槻は京都・大阪間の交通の要衝として栄えた。 それを多彩な資料と映像で分かりやすく説明してあった。 高槻市立第一中学の校庭の側に建っていた。 工兵第四連隊(中部第二九部隊)兵舎は明治42年(1909)より昭和20年(1945)まで存在した。 煉瓦造りの門柱と門衛所が、今はまるで校庭の門かの様に残っていた。 |
摂河泉風土記
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