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大阪城の正面・大手口から二の丸に入るとすぐ左手に「西の丸庭園」がある。 西外堀の内側、即ち大阪城の二の丸の内西部分にあたる箇所を「西の丸」と呼んでおり、 現在は「西の丸庭園」として有料区域となっている。 有料の所為か、城内の他の部分に比べ人の姿は相当少ない。 面積は6.5ha、その内半分以上の3.3haは芝生となっており、その北側に大阪迎賓館が建っていた。 その裏手・東奥の、林の中に豊松庵という茶室があった。 豊臣秀吉築造の大坂城にもこの辺りに「西の丸」があり、秀吉の弟・秀長の屋敷があった。 また、正室の北の政所が秀吉没後から慶長4年(1599)徳川家康が移ってくるまで住んでいたという。 大坂夏の陣後、大坂城は徳川幕府直轄となり、西の丸南部分には、元和5年(1619)内藤紀伊守が 大坂城代になって以来、明治になるまで大坂城代屋敷として使用された。 (大坂城代屋敷は、慶応4年=明治元年・1868に、明治維新の大火で焼失した。) 北部分は土蔵曲輪で幕府の倉庫が並んでいた。 建物の数から「いろは四十八蔵」とも呼ばれたが、現在は焔硝蔵(エンショウグラ)しか残っていない。 西側の西外堀沿いに北から乾(イヌイ)櫓、坤(ヒツジサル)櫓、千貫櫓が建っていたが、坤櫓は昭和20年(1945)の 空襲で焼失した。 東側は、内堀を隔てて本丸で、芝生の為視界を遮らないので、天守閣が良く眺められた。 大阪城には多くの外国人が訪れていたが、見ていると、ここを大阪城入場口と間違える人が多い。 受付の人に、「庭園だけです」と言われ踵を返す人がほとんどだった。
大阪迎賓館
平成7年(1995)APEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議が大阪で行われた時に建てられた。鉄筋2階建 屋根は杮葺風の銅板葺、京都二条城白書院を模したと言われる和風調建築 大阪市が(当時)11億円かけて建てたといわれているが、一部は休憩所として使用されているものの、その後まともな使用されていないらしい。 もったいない、有効活用できないのか? 金銭感覚が厳しいと言われる市民がよく許していると思う。。 貞享2年(1685)建造 重文 焔硝(エンショウ)とは火薬の一種。 外側の壁だけでなく、内側の壁や床、天井までも石造りになっている。 昭和45年(1970)大阪万博開催された際、松下電器(現パナソニック)の創業者・松下幸之助が寄贈した茶室。 豊臣秀吉と松下幸之助の一字づつ取り「豊松庵」と名付けられた。 大阪府庁の北に位置するこの辺りには、合同庁舎、学校、病院などが立ち並んでいた。 注:本稿では「おおさか」の「さか」の表記を「坂」と「阪」の両方を意識して使用した。 江戸時代までは「坂」と書くのが普通で、明治に入ってから次第に「阪」が一般的になった。 現在では「阪」が通常の表記となっている。
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大阪案内
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