ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

大阪案内

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大阪城は4つの出入り口がある、玉造口、大手口、京橋口、青屋口である。

JRを利用して訪れる場合、森ノ宮駅で下車して入城する場合は「玉造口」、大阪城公園駅で下車した場合

は「青屋口」となる。

大坂城公園駅を下車すると、普段は目の前の「太陽の広場」、「大阪城ホール」の側を通って青屋口へと

行くが、今回は少し北に向い、平野川(第二寝屋川)を渡り、高層ビルが林立する大阪ビネスパーク(OBP)

の麓・平野川の川岸を西を歩き、新鴫野橋を渡るという、大回りして行った。

一つには「大阪砲兵工廠荷揚門」を対岸から眺めるためであった。(投稿済)

大阪ビジネスパーク(OBP)辺りは、江戸時代は大坂定番の下屋敷や幕府の火薬製造所があった。

また、慶長19年(1614)大坂冬の陣では「鴫野・今福の戦い」と呼ばれる激戦地でもあった。

大阪ビジネスパーク(OBP)西端には、江戸時代の護岸石垣や河川改修で引き揚げられた築城用の石が展示

されていた。

新鴫野橋を渡り、北外掘と東外堀の間にある青屋口から二の丸に入った。

青屋口は、大阪城二の丸の北に位置する出入り口で、青屋口に向かって右が北外堀、左が東外堀である。

青屋口の桝形は、「二の丸」の他の各口とは異なり、外側に突き出す出枡形だった。

更にその外側は、かっては水掘りとなっていて(東外堀と北外掘はつながっていた)、橋が架かっていた。

その橋は押し出し、引き入れ自在のいわゆる「算盤橋」で非常時以外は引き入れたままとなっていた

そうだ。

だが、大正年間に東外堀部分は埋め建てられたが、平成9年(1997)復元された。

しかし、青屋口の部分の堀は埋め立てられたままになっている。

「二の丸」から、内堀に架かる「極楽橋」を渡って本丸のの北側にあたる「山里丸」へと出た。

ここからは、山里口出枡形を抜けるともう天守閣の下だ。

イメージ 1  新鴫野橋
江戸時代は下屋敷などと城内とを結ぶ橋として、公儀橋の「鴫野橋」がかかっていた。




イメージ 2  青屋門
青屋口は、大阪城二の丸の北に位置する出入り口。
青屋門はその桝形の内側に建つ門。
創建は徳川幕府による大坂城再建工事の開始された元和6年(1626)と考えられる。
慶応4年(明治元年 1868)明治維新の大火に被災し、その後陸軍によって改築された。
しかし、昭和20年(1945)空襲で再び大破した。
昭和44年(1969)大阪市が残材を用いて再建した。
現状は上部に櫓を乗せた独立櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分が更に北西の石垣沿いに長く延びていた。
名称については、大坂(石山)本願寺時代、寺内に「青屋町」という町があったことから、その地名が引き継がれたと考えられる。






イメージ 3

                                極楽橋
二の丸と山里丸を結ぶ橋  昭和40年(1965)架橋
鉄筋コンクリート製であるが上部は伝統的な擬宝珠高欄をとしている。
秀吉築城の大坂城本丸絵図でも付近に木造の橋が描かれている。
徳川幕府が再築城した際も橋を掛けられたが慶応4年(明治元年 1868)明治維新の時焼け落ちて以来ずっとないままになっていた。
名称は秀吉築城前の大坂(石山)本願寺に因むと考えられている。



イメージ 4  「秀頼淀殿自刃の地」碑
慶長20年(元和元年 1615)大坂夏の陣で豊臣秀頼と母・淀殿が山里丸の櫓にひそみ自害したと伝えられる。
それに因んで平成9年(1997)建碑された。
どなたであろうか?花が手向けられていた。





イメージ 5  山里口出枡形
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形。
幕府の大坂城再築工事で築かれた。
本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。
南に本丸に通じる姫門、東に山里丸に通じる山里口門があった。
ずれも慶応4年(明治元年 1868)明治維新の大火で石垣上の塀と共に焼失した。
姫門跡辺りから山里口門方向に眺めると、石垣越しにOBPのビル群が見えた。

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