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天皇、愛しび寵みたまひ、詔として、秦民を聚へて、秦酒公に賜ふ。 公よりて百八十種の勝を領率て、庸・調の絹・縑(カトリ)を奉献り、朝廷に充積む。 因りて、姓を賜ひて㝢豆麻佐(ウズマサ)と曰ふ。(「日本書紀」巻第十四 雄略天皇15年の条) (天皇は秦酒公を寵愛なさり、詔して秦の民を集めて公に与えられた。 公は180種ものすぐりを統率することになり庸・調の絹・かとりを奉献し、朝廷に沢山積み上げた。 そこで姓をお与えになってウズマサという。) 新霊宝殿にて国宝・重文の古仏像を拝観した後、再び境内に出た。 国宝の桂宮院(ケイキュウイン)本堂には拝観おろか近づくこともできなかったが他は自由に拝観できた。 上宮王院太子殿(本堂)に向かって右(東)側前に講堂の他、太秦殿が建ち、左(西)前には薬師堂、能楽堂、 地蔵堂が建っており、上宮王院太子殿(本堂)の左横には弁天社が建っていた。 ほとんどが扉がしまっており、外から眺めるだけであった。 広隆寺は、聖徳太子の側近であった秦河勝の創建にかかる太子所縁の寺であり、渡来氏族・秦氏の氏寺 で、京都最古の由緒を誇る。 広隆寺の建つ太秦(ウズマサ)の地名は「日本書紀」によれば、雄略天皇が15年(471)秦氏の長・秦酒公(ハタノサケノ キミ)に与えられた姓(カバネ)による。 前稿で記したように、広隆寺の創建は推古天皇時代まで遡り、延暦13年(794)の平安遷都以前からあった 寺であった。(創建からずっと現在地だった否かについては諸説ある) 遷都から3年後の延暦16年(797)長岡京乙訓社から霊験薬師如来を迎え人々の信仰を集めた。 平安時代以降たびたび火災に見舞われながら、聖徳太子信仰と霊験薬師信仰を背景に復興を遂げた。 江戸時代には荒廃した伽藍の修築が行われ、現在の寺観が整備された。 薬師如来立像(霊験薬師仏檀像)を安置する。 山城国乙訓郡に乙訓社(向日明神)があった。 その前に一本の神木があり、時々光を放っていた。 薪を採りに入った人がこの神木でたちまちのうちに仏像を造り「南無薬師仏」と唱え、安置したちどころに消え失せた。 この像は向日明神が仮に薪採りの人となって造立した霊像である。 延暦16年(797)5月5日瑠璃光明を放って人々を驚かした。 そこで、勅により願徳寺に移した。 貞観6年(864)聖和天皇が病にかかられた時、道昌僧都が勅許をえて広隆寺に移し、7日の修法を行ったところ、霊験が現れ天皇の病は癒えた。 また、大井川(桂川)が大氾濫した時もこの像に祈願したところ、事なきをえた。 長和3年(1014)5月5日延暦16年と同じ日時にこの像が光明を放った。 このように誠に霊験数多くこの日を拝謁日と定められた。 平安時代の神仏習合をとどめた珍しい天部形の薬師如来である。 地蔵堂 平安時代に弘法大師が諸人安産、子孫繁栄の請願して造った地蔵尊(腹帯地蔵尊)を安置。 この像が腹帯地蔵と言われるのは、腹帯を緩やかにお締めになり、多くの妊婦のお産の苦しみを自らお引き受けになり、安産を授けられる御誓願のお姿からと言う。 上宮王院太子殿(本堂)の西側の神池の中に建つ。 本尊は太秦大明神(秦河勝) 後に漢織女(アヤハトリメ)、呉秦女(クレハトリメ)を合祀。 天保12年(1841)再建 百済国の弓月君、120県の民を率いて帰化し、その子孫・河勝に至りて、この山城北部を賜い葛野(カドノ)に定着し、土地を開拓し、養蚕機織の業に従い、これを奨励した。 後人その徳を讃え神と崇め太秦大明神と称した。 |
京洛逍遥
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