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広隆寺の南大門の道路を北東に歩いていくと数分のところに大酒(オオサケ)神社が鎮座していた。 鳥居横に建つ石柱には「太秦大明神 呉織女 漢織女」「養蚕機織管弦楽舞之祖神」と刻んである。 奥には銅板葺の小さい社殿が建っていた。 秦氏の祖・功満王が来朝し始皇帝を祀ったと言われるが創建は定かでない。 とにかく歴史は古く、秦氏が定住する以前からあったともいう。 中世以降、広隆寺桂宮院の鎮守であったが、明治の神仏分離により、広隆寺の鬼門に当たる現在地に遷座 したものだ。 元は大避神社と称し、木嶋神社(蚕の社)が元社である。 相殿の兄媛(エヒメ)命、弟媛(オトヒメ)命(呉織女 漢織女)は昔大酒神社近くに祀られていたのを 明暦年間(1655〜58)に合祀したものだという。 「日本書紀」によれば、応神天皇の14年(283)に百済より弓月君(ユミヅキノキミ)が120県の人々を率いて来朝し たことが記されている。 また時代が下るが、平安時代初期の弘仁6年(815)嵯峨天皇の勅により編纂された古代氏族名鑑「新選姓氏 録(姓氏録)」の「左京諸蕃上」に、「太秦公宿祢は秦の始皇帝の三世孫・孝武王の末裔である。 末裔の一人・功満王が仲哀天皇の8年(199)に来朝した。弓月王が応神天皇の14(283)年に127県の百姓を 率いて来朝して帰化し、金銀玉帛を献上した。」といったことが記されている。 秦の始皇帝の子孫と称する人々が、当時先進的な養蚕機織管弦楽舞の技を持って百済より渡来し、秦王朝 に因んで秦氏を名乗ったことになっている。 これは伝承であり、そもそも秦氏は百済系でなく新羅系だという説もあることを付け加えておく。 さらに、付け加えるなら、司馬遼太郎は、「兜率天の巡礼」(1957)で秦氏はキリスト教の一派である景教 (BC431コンスタンチノープル大宗会議にて異端とされたネストリウス派)を奉じたユダヤ人集団だった。 彼らが故地を大秦国(中国ではローマを大秦と呼んだ)と言ったため、始皇帝の末裔と誤解が生じたとし ている。 鳥居横に建つ石柱には「太秦大明神 呉織女 漢織女」「養蚕機織管弦楽舞之祖神」と刻んであった。 祭神は、秦始皇帝 弓月王(ユズキノキミ) 秦酒公(ハタノサケノキミ) 相殿に、兄媛(エヒメ)命、弟媛(オトヒメ)命 (呉織女 漢織女) |
京洛逍遥
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