ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

京洛逍遥

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「帷子ノ辻駅」から「車折神社(クルマザキジンジャ)駅」まで雷電に乗って行く。数分の事だった。

「車折神社駅」で降りると、そこは車折神社(クルマザキジンジャ)境内の北端であった。

南が正面なので一旦南にまわり、南北に通じる参道を通り拝所にて参拝した。

拝殿前などには祈願神石を納める納石所、細長い境内には、芸能社、地主神社、清め社、清少納言霊社、

滄海神社、水神社(祭神:罔象女神)、冥官社(祭神:閻魔大王の冥官)、葵忠社(祭神:福田理兵衛)、愛宕

社、辰巳稲荷社など多くの境内社が鎮座していた。



車折神社の由緒は大体次のようなものだ。

高倉天皇に仕えた儒学者・清原頼業(ヨリナリ)は文治5年(1189)に没し、清原家の領地の現在地に葬られ、そこ

に車折神社の前身となる廟が設けられた。

後嵯峨天皇(在位1242〜1246)が大堰川に行幸の時、この地を通りかかったところ牛車の轅(ナガエ)が折れ

た。

そのことから清原頼業(ヨリナリ)の廟を知り、「車折大明神」の神号と「正一位」の位を贈った。

やがて清原頼業(ヨリナリ)の法名「法壽院殿」に因み、神社に隣接して「法壽院」という寺が営まれた。

この寺は、室町時代に至り足利尊氏により嵐山に天龍寺が創建されるとその末寺となった。

こうして、神仏習合で神社と寺が一体となり明治に至った。

明治の初め一時荒廃していたが、明治21年(1888)富岡鉄斎が宮司となり復興した。

清原氏は、天武天皇の皇子・舎人親王の子孫にあたり、清原元輔(モトスケ 平安中期の歌人 三十六歌仙の一

人)、清少納言(元輔の娘、女流文学者)が一族から出た文学者・儒学者の家系である。

清原頼業(ヨリナリ)も儒学に造詣が深かったので、頼業の学徳にあやかり、学業成就に御利益のある社として

古来より信仰を集めてきた。

また、頼業(ヨリナリ)の「より」は金が寄り付く、「なり」は商売が成り立つに通じ、商売の集金が滞りなく

進み、生業が隆盛するご加護があるとされた。



清原頼業(ヨリナリ)は生前殊に桜を愛でたのでその廟には多くの桜が植えられ創建当初より「桜の宮」、「桜

大明神」などと呼ばれ、現在も桜の名所として名高い。

なお、毎年5月第3日曜日に新緑の大堰川で行われる「三船祭」は当社の例祭である。


イメージ 1  参道
南の大鳥居から北に向って参道が延び、表門から境内に入る。




イメージ 2  拝殿
昭和63年(1988)造営 銅板葺
奥に清原頼業を祀る本殿がある。
本殿は宝暦2年(1752)造営 銅板葺
本殿の下に清原頼業の墓があるそうだ。



イメージ 3  納石所
社務所で授与された神石(祈念神石)を携えて本殿前に祈願した後、持ち帰り、家に祀り、願い事が成就したら家の近くや河原などで拾った別の石を1個洗い清め、御礼の言葉や祈願内容を書き記して、神石と共に納石所に納める。
拝殿前にある納石所は明和8年(1771)設けられた。



イメージ 4  芸能神社
祭神 天宇受売命(アメノウズメノミコト)
地主神社に合祀されていたが、芸能・芸術関係者の要請をもとに、分祀。
昭和32年(1957)現在地に社殿が建てられた。。
太秦撮影所が近いこともあり、芸名・ペンネーム・劇団名を記した朱塗りの奉納玉垣がぎっしりと並んでいる。



イメージ 5  清少納言霊社
清少納言の霊を祀る社
平安時代中期の女流文学者・清少納言は清原頼業と同族



イメージ 6  清めの社
円錐形の立沙が境内正面に作られている。
石をモチーフにしているとか。
悪運、悪因縁を浄化する霊験あらたかな社



イメージ 7  滄海神社(弁天神社)
祭神 市杵島媛命



イメージ 8  地主神社
祭神 嵯峨天皇

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