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鹿王院の客室と本堂、舎利殿は瓦敷きの歩廊で結ばれていて、それを伝って本堂、舎利堂内部を拝観し た。 本堂は、仏殿と開山堂を兼ねたもので、本堂中央に須弥壇には釈迦如来と十大弟子像が安置されてい る。、 ほかに裏檀が設けられていて、中央に弥勒菩薩像、左右に賢渓玄倫和尚像・虎岑玄竹(コシンゲンチク)和尚像が 安置され、脇檀には開基足利義満像(衣冠束帯坐像)、開山普明国師像が安置してあった。 舎利殿には鎌倉第三代将軍源実朝が宋の能仁寺より請じた仏牙舎利を納めた金銅製の多宝塔を奉安した大 厨子が内陣須弥壇上にあった。 本堂も舎利殿も内部は薄暗く、瓦敷きの床の所為かヒヤリと冷気を感じ、禅宗の厳しさを感じるものであ った。 客殿ー本堂ー舎利殿は瓦敷の歩廊で結ばれている。 本堂中央に須弥壇、ほかに脇檀、裏檀が設けられている。 須弥壇には釈迦如来と十大弟子像が安置されている。 釈迦如来と十大弟子像 釈迦如来像:南北朝時代作で創建当時のもの 木造 金泥塗 玉眼 十大弟子像:鎌倉前期の慶派仏師の作(寺伝では運慶作と伝わる)で創建時のもの 木像 彩色 玉眼 京都五山を始め、禅寺では応仁・文明の乱でことごとく焼失していて、創建当時の本尊が残っているのは極めてまれである。 左脇檀に安置 足利義満は室町幕府三代将軍(1358〜1408) 法号 鹿苑院元山道義 裏檀の右に安置 塑像 彩色 作者未詳 像の直下は国師の塔所となっている。 嘉慶2年(1388)示寂 裏檀の三尊像 向って右 賢渓玄倫和尚像 鹿王院第11世 虎岑(コシン)の師 寛文元年(1661)示寂 中央 弥勒菩薩像 向って左 虎岑玄竹(コシンゲンチク)和尚像 鹿王院第17世 中興の祖 元禄16年(1703)示寂 宝暦13年(1763)現在位置に移築再建 二層の建物に見えるが一つは裳階で、中に入ると高い天井の単層であることが分かった。 入口に「釈迦涅槃図」が、堂内周囲の壁に狩野鶴嶺筆の一六羅漢図の内8枚が掲げられていた。 内陣中央には宮殿風の大厨子が安置されその周囲には四天王像が護持していた。 入口に掲げられていた。 制作年代作者不詳 大厨子 内陣中央の須弥壇上に宮殿風の大厨子が安置され、四方に仏法護持の四天王を安置していた。 大厨子には仏舎利を奉安した銅製鍍金の多宝塔が納められているとのこと。 この仏牙舎利は、鎌倉第三代将軍源実朝が宋の都・臨安(現杭州)の能仁寺より請じ、当初は大慈寺、後に円覚寺奉安した。 それを、光厳上皇が夢窓国師を通じてその一部を京都に献じさせた。 その後、応安7年(1374)後光厳上皇が普明国師に下賜され、鹿王院に奉安したものである。 毎年10月15日舎利会(仏牙舎利が宋より博多に着いた日)として開扉供養されている。 源実朝が宋より請来したのは、夢の中で、実朝が中国律宗の開祖南山道宣律師の再来であると告げられた ことによる。 ここから道宣が開山である宋の能仁寺の仏牙舎利の請来を再三行い、ようやく目的を遂げたものだった。 この能仁寺の仏牙舎利には次のようないわれがある。 釈迦涅槃後、荼毘のとき帝釈天に与えられる約束であった仏牙を捷疾羅刹(ショウシツラセツ)という鬼がこの二牙 を盗んで空を走った。 これを毘沙門天が追って打ち落として取り戻した。 この仏牙は、隋の時代に北天竺の太子・張瓊(チョウケイ)が南山道宣律師に付託した。 そこで道宣は自らが開山した能仁寺に奉安したのだった。
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京洛逍遥
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