ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

関東紀聞

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夫れ聞く、かの将門なる者は天国押撥御宇柏原天皇の五代の苗裔、三世の高望王の孫なり

其の父は陸奥鎮守府将軍平朝臣良持なり。舎弟下総平良兼朝臣は将門の叔父なり

しかれども、良兼は、さんぬる延長九年を以って、いかさか女論に依りて舅甥の中、既に相違ふ
                                                     (「将門記」)

昨夜は雨だったが、今朝は良く晴れていた。

昨日の天気予報では曇りのち時々雨と言っていたが・・・。

ここ大井町のホテルから品川方向に眼をやると、都心の高層ビル群越しに二つのタワーが望まれた。

8時半ごろ東京駅に出て、大手町辺りをぶらりぶらり歩く。

オバマさんが来る所為か、常時なのかわからないが、お上りさんから見ると、お巡りさんの姿が多い。

皇居濠近く、大手町パルビルの西の街区、三井物産ビル南側に将門首塚があった。

今まで大手町に来た場合、いつも地下街・通路を歩くので、長い間将門首塚を見つけられずにいた。

そのため、今回やっと探しあてたという感じだ。

ビルに囲まれた一画でありながら、樹が生い茂り、木陰を造っていた。

南隅に古い石塔とそれを隠すように前に「蓮阿弥陀仏」と刻まれた板碑が建っており、多くの生花と線香

が手向けられていた。

平将門は桓武天皇五代の末裔で、平氏の姓を授けられた高望王の孫、鎮守府将軍平良将の子である。

平氏一族の抗争の果て、兵を起し、坂東8か国を制圧し、自ら新皇と称したが、天慶3年(940)平貞盛、

藤原秀郷らの征討軍に敗れ、額に矢が命中して討死したといわれる(天慶の乱)。

将門の首級は京に送られ晒し首になった。

しかし、3日後白光を放って東方に飛び去り、ここ武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。

大地は鳴動し、太陽も光を失って暗夜の様になったという。

そこで、村人たちは恐怖して塚を築いて埋葬した。

しかし、その後も将門の怨霊は祟りをなした。

徳治2年(1307)時宗2世真教上人が江戸に行脚した際、荒れ果てていた塚を修復し、将門に「蓮阿弥陀仏」

という法号を贈り、塚前に板石塔婆建てた。

又霊を傍らの日輪寺に供養し、当時傍らにあった神田明神に霊を合わせ祀った。

その結果、将門の霊魂は鎮まり、この地の守護神となったという。

神田明神が移転した後も塚はこの地に残ったが、明治2年(1869)より第二次世界大戦時まで、この地に大

蔵省が置かれ、一時崩されるなど幾多の変遷があったが、昭和45年(1970)将門塚保存会などにより現在の

様に整備されたとのことだ。合掌



イメージ 1    イメージ 2
                     東京タワー(左)、東京スカイツリー(右)

イメージ 3

                                 遠望の都心




イメージ 4 将門塚
将門塚のある一画は緑豊かだった。
奥に、大蔵大臣阪谷芳郎の「故跡保存碑」が建ち、
奥右手に将門首塚があった。




イメージ 5 将門首塚
復刻された板石塔婆が建ち
生花、線香が手向けられていた。



イメージ 6 将門首塚
板石塔婆の裏には、古い石塔が建っていた。

ここに新皇甲冑を着て、駿馬をははやめて身自ら相戦ふ

時に現に天罰有りて、馬は風のごと飛ぶの歩みを忘れ、人は利老が術を失へり

新皇はそらに神鏑(シンテキ)に当たりて、終に逐鹿(タクロク)の野に戦ひて、独り蚩尤(シイウ)の地に滅びぬ
                                                     (「将門記」)


イメージ 7

                                案内図

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