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会津若松に来て、鶴ヶ城からそれほど離れていないビジネスホテルに投宿した。 ホテルの前は『野口英世青春通り」と名付けられた煉瓦敷きの小奇麗な通りであった。 食事前に少し周辺をぶらついた。 野口英世青春通りは会津若松を南北に貫く神明通りの一筋西側通りで西栄町の南端から大町北端までをい うようだ。 名を記したアーチがあり、街頭は野口英世の顔をモチーフにした飾りが付けられている。 5歳の時火傷を負った野口英世(幼名:清作)は、この通りで開業していた会陽医院の渡辺医師の執刀で手 術を受けた。 医術の奇蹟に感動した英世医学の道を志し、明治25年(1892)から明治29年(1896)の間、会陽医院で書生と して入門した。 すなわち、15歳から19歳の青春の真っただ中をこの通りで過ごしたのだ。 野口英世の名の由来となった旧会陽医院、野口英世像の建つ野口英世青春広場、などがあった。 また、英世の初恋の相手山内ヨネの生家もこの辺りにあったようだ。 また、この通り周辺には蔵作りの店舗民家が多くみられ、独特の雰囲気を醸し出していた。 因みに、野口英世は、明治31年(1898)北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手になり、明治33年(1900)12月に 渡米、明治37年(1904)よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータの研究を重ね、国際的にも 高い評価を得た。 大正7年(1918)からは南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、 昭和3年(1928)5月21日現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年53歳。 名前を記したアーチと 英世の顔を飾った街頭 野口英世青春広場に建つ。 台座の銘文(英文)の意は次の通り。 博士野口英世 ロックフェラー医学研究所所員 1875年(明治9年)11月9日日本猪苗代に生る。(1875は1876の誤りでは?) 1928年(昭和3年)アフリカ黄金海岸に死す。 科学と人生への貢献の故に、彼の生涯は黄熱病の征服の斗いの為に捧げられた。 この銅像は彼の親愛なる市民によって、彼の偉大なる業績を記念しかつ将来の若き世代の人々に彼の示範と激励を要請すべく建立されたものである。 1957年(昭和32年) 英世青春館 旧会陽医院、現喫茶「会津壱蕃館」 アメリカから帰朝し、最初の医療技術を身に付けた渡辺鼎が明治23年(1890)開業した医院。 野口英世はこの2階の書生部屋で深夜まで猛勉強していたとのことだ。 大町四つ角の旧郡山商業銀行若松支店角に立っていた。 ここまでが野口英世青春通りで、 これより北は町方蔵しっくい通り(大町通り)となる。 また、西に伸びる通りは七日町通り、 東は一之町通りとなる。 明治12年(1879)年の蔵での珈琲店 |
陸奥孤旅
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