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飛騨では、郡代というのは、えらいものであった。いわば将軍の代理人で「御郡代様」と、 尊称された。 ― 中略 ― 郡代は身分は旗本ながら、役目としての礼遇は 大名なみであった。 (司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行) 飛騨国分寺、飛騨総社、飛騨国分尼寺跡の辻ケ森三社を廻った後、高山の目玉の一つである古い商家・民家 の家並み(伝統的建造物群保存地区)を見物しようと思い、宮川に架かる中橋辺りに来た。 しかし、雨がぽつぽつ降り出したので、雨宿りと天気の様子見を兼ねて、目の前の高山陣屋へ入った。 元禄5年(1692)徳川幕府は、それまでの領主・金森氏を出羽へ転封し、飛騨を幕府直轄領とした。 その後明治維新に至る177年間に25代の代官・郡代が江戸から派遣された。 その職住を兼ねた役所が「高山陣屋」である。 明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきた。 昭和44年(1969)飛騨県事務所が移転をしたのを機に全国に唯一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存する為 平成8年(1996)までに復元修理された。 内部は、玄関、大広間、座敷、庭園、役宅、吟味所・白洲、御蔵などからなっていた。 陣屋は江戸期の建物ながらよく修復されていて、若者の肉体をみるようにしっかりしている。 大きな門の前に立つと、意外に優美である。入ってしばらく行くと、堂々たる玄関に達する。 上がって、さまざまな御用の間を見た 取り調べをする御白洲も、よく保存されている。 役宅なども、飛騨ふうの、軽快な建物で、当時の幕府の重い権力を想像しないかぎり、 いい建築遺構だった。(司馬遼太郎「街道をゆく」飛騨紀行) 表門と向って右脇の門番所は天保3年(1832)築 玄 関 玄関および奥の御役所は文化13年(1816)改築 天明年間(1781〜1789)に造りかえられ、 その後もしばしば手を加えられた。 大広間は三室に分かれており、公式の会議などに使用された。 書院造りのこの部屋からは濡縁を通して庭が見渡せる。 文化13年(1816)改築 茶室の事を「御囲い」と呼んだ。 郡代が生活した場所・役宅は 文政13年(1830)の絵図面をもとに平成8年(1996)復元 玄関の向かって左前側にあり、奥は吟味所となっている。 御白洲はぐり石敷きで無双窓付きの板壁・屋根付き。 責台、抱え石といった拷問用具 や囚人駕篭(唐丸篭)が展示してあった。 元禄8年(1695)高山城三之丸から移築され、 年貢米の蔵として使用された。 年代、規模共に全国でも最古・最大級の米蔵と言われている。 |
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