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醍醐天皇の御宇、延長六年(928)戊子八月のころあい奥州より、見目よき僧の浄衣着たるが、 熊野参詣するありけり。 紀伊国室の郡、真砂(マナゴ)と云ふ所に宿あり。 此の亭主、清次の庄司と申す人の娵(ヨメ)にて、相随ふ者数(アマタ)在りけり。(道成寺縁起」巻上) 道成寺には2つの伝承がある。 一つは前稿で記した宮古姫の道成寺草創に係わるもの、もう一つは、安珍清姫で知られる伝説である。 道成寺には、古伝をもとにして室町時代描かれた絵巻「道成寺縁起」(重文)を所蔵していることが知られ ている。 また、境内には、安珍・清姫の伝説を伝える旧蹟があり、縁起堂では「道成寺縁起(写本)」の絵とき 説法がおこなわれている。 なお、本稿では便宜上「安珍清姫の伝説」と言ったが、「安珍・清姫」の名が出るのは後世のことで, 「道成寺縁起」(巻上、下)には「安珍清姫」の名はない。 安珍・清姫の伝説の概要は次のようなものである。 奥州から熊野詣でに向かった安珍は、眉目秀麗な若い僧であった。 一夜の宿とした紀州真砂(マナゴ)の清姫は安珍に恋情を抱き、安珍に一夜の契を迫った。 安珍は僧の身断るが、清姫のあまりの執拗さに、その場限りの方便として「熊野詣を終えたら必ず 立ち寄り清姫の願いを叶える」と約束してしまう。 どうにか熊野詣を済ました安珍は、清姫から逃れるためと別道で帰路についた。 他方、安珍を待っていた清姫は、約束が破られたことを知り安珍を追い、やがて大蛇に姿を変えた。 それを知った安珍は道成寺に逃げ込み、釣鐘の中にかくれる。 追ってきた大蛇は釣鐘に巻き付き、口から吐く情念の炎で安珍を焼き殺してしまい、自らは入水して果て る。 その後二人は寺僧の供養によって天上に生まれ変わる。 道成寺には現在、鐘楼も釣鐘もない。 初代の釣鐘と鐘楼は、平安時代安珍・清姫の事件で焼け落ちたと言い伝えられる。 約400年後、2代目の鐘楼が再建されるが、豊臣秀吉の紀州攻めで鐘楼は焼け、釣鐘は没収された(今は京 都市岩倉の妙満寺にある)。 参道の東側に初代と二代目の鐘楼跡と伝えられる場所があるが、最近の発掘調査で入相桜近くに鐘楼跡が あり、焼けた土も出土したそうだ。 参道から眺めた縁起堂 参道の西側には手水、転法輪石、地蔵尊が並ぶ西奥に縁起堂が建っていた。 縁起堂では「道成寺絵巻」の写本を用いて絵とき説法が行われている。 「絵とき」とは、絵巻や掛け軸などを見せながら説法すること。 掛け軸を用いての絵ときは各地で行われているが、今でも絵巻を用いての絵ときは道成寺だけだそうだ。 「道成寺縁起」巻下(部分) 鐘を巻きて、竜頭をくはへて、尾を以ってたたく。さて三時あまり、火焔もえあがり、・・・・ さて蛇両眼より血の涙流し、頭をたかくあげ、舌をひろめかし、本の方へ帰りぬ。 参道の本堂に向かって右(東)側 榁(ムロ)の老木の根元に石碑があった。 安珍と釣鐘を葬った場所という。 安珍塚の南、参道の右(東)にあった。 初代鐘楼の跡と伝えられる。 道成寺初代の釣鐘と鐘楼は、平安時代安珍・清姫事件で焼け落ちたと言い伝えられる。 「鐘巻の跡」碑 の左奥 南北朝時代、二代目の釣鐘が造られ、この場所に鐘楼が再建された。 これを題材に能楽や歌舞伎の道成寺物が作られた。 その2代目の釣鐘は豊臣秀吉の紀州攻めの時に没収され、今は京都市岩倉の妙満寺にある。 二代目鐘楼跡近く(写真では右端)に中村富十郎の累代供養碑が建っていた。 歌舞伎役者の初代中村富十郎は独力で「京鹿子娘道成寺」を振付、宝暦3年(1753)江戸中村座で上演し、大当たりした。 本堂の西に生えているエドヒガンザクラ 初代は江戸時代から知られた大木であったが、昭和初期台風で折れた。 その後根元から自生したのが現在の木である。 宝暦9年(1759)大阪難波の竹本座で、安珍・清姫の物語に基づく文楽が上演され、大評判となった。その作品は、この桜に因んで「日高川入相花王(ヒダカガワイリアイザクラ)」と名付けられた。 古来より、花の王は中国では牡丹、わが国では桜とされたことから「花王」と書いた。 入相桜の背後は鎮守三社、護摩堂。 本堂裏(北)側の中央の扉手前に架けられている。 本堂裏(北)側の中央の扉の奥には秘仏千手観音(北向観音)が安置されている。 次回御開帳は平成50年(2038)であるが、毎年春には「道成寺物」の公演が行われているとのこと。 |
近畿紀聞
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