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大幅に昼が過ぎていた。 魚住のWさん達と中崎公会堂近くの料亭旅館・人丸花壇にて、遅めの昼食をとった。 がやがや云いながらの食事は楽しい。出された海鮮料理もうまい。 この後、再び西国街道歩きに戻り、大蔵院近くの稲爪神社に寄った。 稲爪神社はこの辺り・大蔵谷の氏神で、由来は、推古天皇の頃に遡る。 推古天皇の頃、異国から鉄人が8000人率いて九州に攻めてきた。 伊予国の越智益躬(オチノマスミ)は勅命で九州に向かい、敵陣に入り、偽って、降伏して彼らを東に導いた。 明石に到着した時、俄に空が暗くなって雷鳴がとどろき、凄まじい稲妻の可に、三嶋大明神が現れて越智 益躬(オチノマスミ)を援け、鉄人たちは討たれてしまった。 そこで、越智益躬(オチノマスミ)は伊予の三島大明神(現在の大山祇神社 愛媛県大三島町)を勧請し祀り、稲妻 大明神と崇めた。 後に「稲妻」から「稲妻」となった、というのが当神社のえんぎである。。 社殿は昭和52年(1977)失火で焼失し、昭和54年(1979)7月再建されたものだ。 経営者が徳川家と同根の松平家の子孫ということで三つ葉葵の家門がついた幕を玄関に張り 玄関正面には鎧がかざってあった。 松本清張が滞在し「Dの複合」を執筆したという。 「Dの複合」に「人丸花壇」の名が登場する。 「・・・加古川の街を通り抜け、右側のほうに淡路の灯が見え隠れしているうちに明石市内に はいり、着いたところが海岸に面した「人丸花壇」という旅館だった。 二階に通されると正面に淡路島で、もう島のかたちは見えず、真向いの 岩屋あたりの灯が 輝いているだけだった。」 ( 松本清張 「Dの複合」 ) 沢栄の筆による扁額は何故か外してあった。 随身像 社殿は昭和54年(1979)7月再建 祭神:大山祇(オオヤマツミ)大神 面足(オモダル)大神 惺根(カシコネ)大神 地 図 追記: 平成27年(2015)10月23日所用があって稲爪神社を再び訪れた。 随身門には扁額が掲げられていた。 社務所和室には「明石名勝故事談」を著した橋本海関の書が掲げてあった。 橋本海関(カイカン 1852〜1935)は明石藩の最後の儒学者。 詩画に秀でた文人でもあり、多くの書画や「明石名勝古事談」などの著作を残している。 晩年は明石に住み、郷土の歴史研究にも力を注いでいる。 日本画家・橋本関雪(カンセツ 1883〜1945)は海関の息子 10月25日までの予定で、「橋本海関・関雪展ー父子の歩みー」を明石市立文化博物館で催している。 |
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