ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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紅葉が美しい参道を登ってい行き、寺標の建つ勅使門前で左(南)に折れると石造多重塔が紅葉の中に佇ん

でおりその先に宗祖大師堂があった。

大師堂は南に面する正門の唐門と石像多重塔近くに通じる北門を持つ築地塀に囲まれている。

少し南に廻って唐門から入る。

唐門から振り返ると琵琶湖が一望できたが少し霞んでいた。


西教寺は、聖徳太子が仏法の師である高句麗僧・慧慈と慧聡のため開創した。

推古天皇26年(618)大窪山の号を賜り、天智天皇8年(669)に西教寺の号を賜ったと伝える。

その後、天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念仏道場とした。

文明18年(1486)比叡山で修業した慈攝(ジショウ)大師真盛上人が、荒廃した西教寺に入寺し、不断念仏の根

本道場として再興した。

江戸時代には、東叡山輪王寺の末寺に置かれていた。

明治維新後「山門別院となり、

明治11年(1878)明治政府により別派独立が公許され、「天台宗真盛派」の本山となった。

その後、一時天台3派合同したが、戦後、昭和21年(1946)「天台真盛宗」と公称・独立し今日に至ってい

る。

宗祖大師殿は、明治11年別派独立が公許されたのを記念して、宗祖真盛上人像を安置するため建立された

ものである。

唐門から入った境内には、正面には大師堂が建ち、左手に真盛上人御詠歌碑と御遠忌塔んどが、右手には

真盛上人の幼形像・宝珠丸像立ち、その先に杮葺の北門となっていた。

 


イメージ 1 石造多重塔
左(南)手に宗祖大師殿が建つ。



イメージ 2 大師殿唐門
琵琶湖に面している。



イメージ 3 唐門の彫刻 
白木で素朴な中にも豪華な彫刻が施されていた。



イメージ 4 大師殿
真盛上人を奉安する黒塗りの厨子が安置されていた。
扉は閉じられていたので像を拝見できなかった。




イメージ 5 真盛上人御詠歌碑と御遠忌塔



イメージ 6 宝珠丸像 
真盛上人は、紀貫之の末裔で幼名は宝珠丸。
母が地蔵菩薩から宝珠を授かった夢みて上人を身籠ったのでこう名付けたと言われる。




イメージ 7 大師殿北門 
外がに石造多重塔が建つ。
左(西)に折れて、奥に進むと本堂前に至る。


真より 開ける法の 花なれば 盛んなれかし 嵐吹くとも

天台真盛宗宗祖圓戒国師慈攝(ジショウ)大師真盛上人(1443〜1495)は、伊勢国一志郡小倭大仰(オヤマトオオノキ)の

郷(現在三重県一志郡一志町大字大仰)で生まれた。

紀貫之の末裔で幼名は宝珠丸。母が地蔵菩薩から宝珠を授かった夢みて上人を身籠ったのでこう名付けた

と言われる。

7歳の時、伊勢国川口郷の光明寺の盛源律師の弟子となってその寺に移る。

14歳の時、剃髪出家して名を真盛に改めた。

19歳の時、伊勢大神の夢のお告げを受け、比叡山に登り、20年間修業を重ねた。

35歳で権大僧都にまで出世した。

40歳の時、病母を看取る為郷里に戻るが、文明15年(1483)比叡山黒谷の青龍寺に籠った。

文明18年(1486)44歳の時、荒廃した西教寺に入り、堂宇と教法を再興した。

また、日課六万辺称名念仏を修め、朝廷、公家、武士、庶民戒と念仏の布教を行い、戒称不断念仏の根本

道場とした。

明応4年(1495)伊賀西蓮寺で病に倒れ、53歳で入寂した。

後土御門天皇から上人、後柏原天皇から国師、明治天皇から大師 の号を下賜された。

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