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光秀は、ここにくる度にそう思う。この寺は、千年近くも前に、聖徳太子によって開かれたが、 後に真盛上人が日課六万遍の称名念仏をひろめて、西教寺を復興した。 以来90年、この念仏を称えつつ打つ鉦の音は、毎日毎時たえたことがないという。 (三浦綾子「細川ガラシャ夫人」鉦の音) 隅には、真盛上人誓願の不断念仏一万日記念供養塔や宝篋印塔などの石碑が立ちならんでいた。 また一方の隅には明智光秀の墓や供養碑などが並んでいた。 元亀二年(171)9月織田信長は坂本、比叡山を中心に近江の国の寺院を焼き討ちした。 西教寺も全山類焼の厄に遭った。 その後、坂本城主となった明智光秀は西教寺再興に尽力した。 三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」ではその頃の西教寺の様子を鮮やかに描いている。 真盛上人が西教寺に入寺し、不断念仏の道場として、弥勒菩薩が慈尊仏として世に出られる50億年の来るまでも不断に念仏を相続しようと大誓願を立てた。在世中は度々48日夜の別時念仏会を修行し、上人の滅後一万日(27年4か月)になると万人日法念を修行している。 その記念として供養塔を建立して相続している。 本能寺の変、山崎の合戦、坂本城攻防など続く戦乱の中で、妻木城で代城主・妻木藤右衛門廣忠の兄弟3人は討死した。 また、一族郎党も多数討死したと言われる。 廣忠は、天正10年(1582)6月14日坂本城落城後、明智一族に殉死した人々を西教寺に埋葬供養した後、18日熙子(廣忠の娘、光秀の室、細川ガラシャの母)の墓前せ自刃したと言われる。 芭蕉没後300年記念句碑 月さひよ 明智が妻の 吐せむ 芭蕉 「奥の細道」の旅の途中、越前丸岡に足を止めた折、光秀と妻熙子のエピソードを耳にしたことを、後に、伊勢の門弟山田又玄(ユウゲン)の妻に贈ったもの。 明智一族墓 天正10年(1582)本能寺の変の後、山崎の合戦に敗れて非業な最後を遂げた明智光秀は一族と共に西教寺に葬られたと言われている。 順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元 (大意:修行の道には順縁と逆縁の二つがある。 しかし、これは二つに非ず実は一つの門である。 即ち順境も逆境も実は一つで窮極のところ人間の心の源に達する大道である。 而してわが五十五年の人生も醒めてみれば全て一元に帰するものだ。) 元禄6年(1693)に書かれた「明智軍記」に因るもので、山崎の合戦で敗れた光秀がこの偈を従士の溝尾庄兵衛に託して自刃したと伝えられる。 明智一族の墓の隣に建てられていた。 天正12年(1584)造立された像の破損が著しいため、平成16年(2004)復元された。 阿弥陀如来が、25菩薩を従えて、はるか浄土の世界から音楽を奏でながら来迎し、念仏者を極楽浄土に導くという浄土思想によって造立された。 義貞の墓所がある寺・称名寺、坂井市 :月さひて・・・芭蕉句碑
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