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玉だすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生まれましし 神のことでの つがの木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめしを 天にみつ 大和を置きて おをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天さかる都にあれど 石走る 近江の国の 楽浪(サザナミ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも 柿本人麻呂(「萬葉集」巻第一 No29) を幾箇所か散見した。 遺跡跡といっても、一か所には碑と柿本人麻呂の歌碑がるが、他は建物の跡を示す杭だけで、住宅街の小 公園と言った感じの広場だ。 677年天智天皇は、新羅・唐と対戦した白村江の戦いで敗北に終わった後、突然都を飛鳥から近江に移し た。 この近江に営まれた宮が大津宮である。 しかし、遷都後わずか5年で崩御し、その後起きた壬申の乱(672)によって廃墟になった。 僅か5年5か月の短命の都であった。 大津宮の位置は諸説あったが、昭和49年(1974)以降の発掘調査によって錦織地区が中枢部分であることが 確定した。 壬申の乱後灰燼に帰し草に埋もれて霞に覆われた近江京址を訪ねた柿本人麻呂は冒頭の歌を詠んでいる。 歌意は、畝傍山の橿原の聖なる神武天皇の御代から お生まれになった歴代の天皇が、次々とそこで天下 を治められた。 その大和を捨てて奈良山を越え、どの様にお思いになってか、天智天皇は遠く離れた田 舎であるのに,楽浪のの大津の宮で、天下をお治めになったそうである。 その天皇の神の命の大宮は、ここだと聞くけど、大殿はここだと言うけれど、春の草がいっぱい生えてい る。霞が立って春の日が霞んでいる。大宮跡どころを見ると悲しい。 |
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