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大内氏がこの山口に首都をおいたのは、南北朝のころの弘世(17世)のときであった。 弘世は京の公家の娘を夫人にしたというから、大内氏の公家好きは古い。 ―中略― この大内弘世の夫人は山口に下ってからも都が恋しくて泣き暮らしていた。 弘世、それをあわれみ「されば都を此の地に遷すべし」として都市設計を改めて京都風にし九重の 形象をとり、洛中洛外の山川を模し、さらに仏寺神廟まで京風にし、八街九陌を拓いた。 (司馬遼太郎「街道をゆく 1」) 友人のHと早春の山口市内を、瑠璃光寺を目指して萩往還(県道62号線)をぶらぶら歩いている。 途中大内館址の龍福寺の拝観を終えると、その北隣の八坂神社社頭に出た。 この神社は、今から600年ほど前、山口開府の祖と言われる大内弘世(1325〜80)が京都から勧請したもの であるという。 今でも7月20日から7日間にわたって行われる「祇園祭」には、大内氏時代から伝わる神事「鷺の舞」が奉 納されるとのこと。 大内氏と縁があるので、何か痕跡でもあるのではと思って境内に入った。 祭神:素盞鳴尊、稲田姫命、手名槌命、足名槌命 大内義興が永正17年(1520)高峰山麓に建立したものを幕末、藩庁を山口に置いたのを機に現在地に移築した。 朱塗りの本殿は三間社流造、檜皮葺 重文 昭和40年(1965)11月建立 天文年間(1532〜54)大内義隆が京から迎えた北の方を慰める為、しばしば詩歌管弦の遊びを催した。 或る時、その席で7人の若い殿上人が一首ずつ歌を作り、次々と箏で弾き歌いすることが行なわれた。 これが箏の組歌の始まりである。 明治37年(1904)5月建立 盃状穴(ハイジョウケツ)は、性のシンボルとして死者をよみがえさせることや豊作を願うことを意味する刻印と考えられている。 今日でも、一種の「願」をかける場として使用されている。 |
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