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義隆にいたって大内氏の富強は絶頂に達したが、にわかに重臣陶晴賢が反乱し、没落した。 天文20年(1551)9月1日義隆自刃したが、―中略― この兵乱で弘世以来二百余年のこの小京都は火の 中にほろんだ。いまは大内文化の遺構というのは、ほとんどない。わずかにいまからゆく瑠璃光寺 の五重塔ぐらいのものであろうか。(司馬遼太郎「街道をゆく 1」) 国道9号を横断し、緩やかな坂の道を歩いて行く。 一の坂川を渡って左手に折れると南面の山腹に瑠璃光寺が建っていた。 境内に入ると入ると、梅林、池、ツツジなどを植えこんだ庭園が広がり、正面先に山門・本堂が建ち、 右手には前を庭園、背景を山林の緑の国宝・五重塔が建っていた。 もともとここには大内義弘が応永2年(1295)建てた香積寺(コウシャクジ)があった。 大内義弘が応永6年(1399)応永の乱を起し、泉州堺で戦死した。 五重塔は、後を継いだ弟の盛見(モリハル)がその菩提を弔うため、香積寺に建てたものである。 嘉吉2年(1442)頃完成したと言われている。 慶長9年(1690)毛利輝元が居城を萩に移すのに伴い、香積寺も解体されて萩に移ることになった。 五重塔も解体されそうになったが、山口町民が嘆願書を出して解体移築を免れた。 香積寺の址地に、元禄3年(1690)仁保にあった瑠璃光寺が遷り、瑠璃光寺の五重塔として今日に至ってい る。 左右に1対の門柱が立つ。 向って左手前に「不許葷酒入山門」と刻んだ石標が建っていた。 池畔から眺めた五重塔 高さ31.2m、屋根は檜皮葺、総檜造、2層のみ回縁が付、 国宝 各層とも軒の出が深く、屋根の勾配は緩やかで、形状が優美なことで有名 五木寛之がその著「百寺巡礼」第8巻で記しているように、各層の軒先の風鐸は女性のイヤリングの様で、屋根のラインの優美さをまし、屋根の上の水煙は本物の煙が建ちあがっているようだ。 本堂近くから眺めた五重塔 瑠璃光寺の五重塔は醍醐寺、法隆寺と共に日本3名塔に数えられている。 手前の建物は回廊と袴腰鐘楼 大内弘世像と五重塔 梅林の南西に大内弘世(ヒロヨ)の騎馬像が立っていた。 大内弘世(1324〜80)は周防・長門の守護、正平15年(延文5年、1360)本拠を山口に移し、京都に模した都市計画に基づき市街整備を行い、後の大内文化に繋がる基礎をきずいたので、山口開府の祖とされる。 (長州は、いい塔をもっている)と惚れ惚れするおもいであった。 長州人の優しさというものは山口に八街九陷(ハチガイキュウエン)をつくった大内弘世や、ザビエルを保護し た義隆などの大内文化を知らねばわからないような気がする (司馬遼太郎「街道をゆく 1」)
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