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東光寺境内に隣接して毛利家東光寺廟所があった。 廟所に至る参道には、殉難士碑と古井戸続いて維新殉難者の墓が並ぶ。 奥の廟所小門を潜ると、老杉・松の大樹が生い茂る周囲の中に、萩藩主3代吉就(ヨシナリ)、5代吉元。7代重 成、9代斉房、11代斉元並びに各夫人10基の他、枝葉近親者20余基の墓があった。 墓の周囲には、玉垣16か所、5藩主および吉元の嗣子宗元の業績を記した神道石碑が6基、鳥居5基、重 臣諸家が献上した石燈籠500余基が建っていた。 藩主夫妻・一族関係者の墓は、唐破風の笠石を乗せた角柱形で、特に藩主夫妻のものには家紋が陽刻して あった。 なお、萩市内には毛利家墓所としてはこの他として、萩藩祖輝元の墓がある「天樹院墓所」、初代藩主と 偶数代藩主の墓がある「大照院墓所」がある。 毛利家墓所 毛利家墓所 毛利家墓所 毛利家墓所に至る参道には、殉難士碑と古井戸続いて4大夫と11烈士ら維新殉難者の墓が並んでいた。 元治元年(1864)7月19日に勃発した禁門の変と同年8月下関戦争の敗北により,藩論は幕府へひたすら謝罪 降伏に転換し,尊皇攘夷派(急進派)が一掃されて恭順派が藩の政権を握った。 第一次長州出兵が迫る中、益田右衛門介、国司信濃(クニシシナノ)、福原越後の3家老が禁門の変の責任を問わ れ、同年11月11日自刃を命ぜられ、益田、国司は徳山で、福原は岩国で夫々自刃した。 また、12月25日萩で家老の清水清太郎も自刃を命じられた。 また、10月24日尊皇攘夷派の11人が野山獄に投獄された。 11月12日に竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛、宍戸左馬之助の4人が斬首され、 12月19日前田孫右衛門、毛利登人(ノボル)、山田亦介(マタスケ)、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助、松島 剛蔵の7人が斬首された。 明治維新後、旧藩士杉孫七郎、杉民治(タミジ 吉田松陰の兄 梅太郎)らは殉死した4大夫と11烈士の墓が 各所に散在し、香花も絶えて十分な世話もできない状態であることを見聞きし、 明治22年(1889)彼らの招魂墓を建てた。 明治31年(1898)には禁門の変・萩藩征討の起因の責を感じて山口で自刃した周布政之助の招魂墓も同所に 建立された。 なお、墓所の右隅には撰鋒隊士のため、明木権現原で暗殺された桜井三木三、香川平助、冷泉五郎等鎮静 会議員の墓があった。 |
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