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萩城下町武家屋敷を廻り、外堀を渡って旧萩城三の丸・堀之内地区に入った。 この辺りには、藩政時代は藩の諸役所や毛利一門、永代家老、寄組などの大身の侍屋敷が立ち並んでいた ところである。 しかし、それらの邸宅も明治以降ほとんど姿を消し、わずかにその地割を示す土塀や長屋門が残り、往時 を偲ばせている。 現在、この堀内地区は重要伝統的建造物保存地区に指定されている。 また土塀・石垣越しに見える夏みかんは士族救済のため広大な屋敷跡に植栽されたものであり、近代萩の 歴史を物語っていた。 萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける堀。 元和8年(1622)に完成したと言われている。 約740mある。 城下町側から町屋が張り出してきたため、堀の幅は40mから25m、16mとじだいにつれて狭くなった。 脇戸付高麗門 切妻造、高さ約7m 平成16年(2004)復元完成、平成23年(2011)周辺整備 北、中、平安古(ヒヤコ)の3か所にあった総門(三の丸の入り口)の一つ。 益田家は萩藩永代家老(12,062石余)。 幕末の当主親施(チカノブ)は、13代藩主毛利敬親(タカチカ)を援け藩政改革を行ったが、元治元年(1864)禁門の変の責任者として切腹させられた。 繁沢(ハンザワ)家は、阿川毛利家(7,391石余)の分家で萩藩寄組に属した。 萩藩永代家老益田家の庶流で、大組士筆頭(1、530石余)周布(スフ)家の萩屋敷表門。 腰部を下見張りとし、基礎に見事な切石積があり、上部は白漆喰大壁造。 江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を残している。 土塀は延長231.7mあり、往時の姿を良く留めている。 問田益田氏は萩藩永代家老益田家の分家筋にあたり、給領地(4,096石余)を問田(現山口市)に持っていたのでこう呼ばれた。 萩藩永代家老福原家(11,314石余)の萩上屋敷の表門である。 建造年代は江戸中期ころと思われる。 萩に現存する武家屋敷の門はほとんど門番所のある長屋門であるが、この門は珍しく門番所がない。 堀内街路 |
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