ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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慈尊院境内南側に長い石段が続いていた。

慈尊院鎮守社であった丹生官省符(ニュウカンショウブ)神社である。

弘仁7年(816)弘法大師空海が慈尊院を拓いた時、守り神として丹生明神と高野明神の2神を祀ったの始ま

りとされる。

元々は、紀ノ川河畔に鎮座していたが、洪水を避けて文明6年(1474)現在地に遷座た。

その後他の神々を合祀し、中世には神通寺七社明神と呼ばれ、近代には丹生神社、戦後の昭和21年(1946)

丹生官省符神社と改称した。

当社は、高野山山麓の官省符荘総社として栄えたが、明治の神仏分離によって境内の仏堂は取り除かれ

本殿の3棟(重文)のみが往年の姿を留めている。

極彩色の3棟の本殿が背後の社叢と絶妙なコントラストをなしていた。



イメージ 1 丹生官省符神社社頭
119段の石段の上の高台に鎮座している。
石段の中央に一の鳥居が建っている。
宝永二年(1705)槇尾山明神社の参道に建てられたものだが、明治43年(1910)の神社合祀に伴い大正10年(1921)現在地に移された。




イメージ 2 町石道入口
石段の中央、一の鳥居の近くより高野山詣での表参道の入り口があった。
道標として高野山の根本大塔、奥の院まで、続く町石の最初の町石が立っていた。
町石は花崗岩で五輪塔の卒塔婆形式となっている。



イメージ 3 二の鳥居 
朱塗りの鳥居で中央には、既に終わったと思うが、6月30日の大祓式の茅の輪潜りの準備がなされていた。



イメージ 4  拝 殿




イメージ 5

                                本 殿
一間社春日造檜皮葺で丹塗りの極彩色の社殿、同規模同形式で3棟横一列に建っている。(重文)
右から第一殿、第二殿、第三殿と並ぶ(写真は第二、第三が写っている)
第一殿:丹生都比売大神(ニュウツヒメノオオカミ 丹生明神)
    高野御子大神(タカノミコノオオカミ 高野明神、狩場明神とも)
    天照大御神
第二殿:大食都比売大神(オオケツヒメノオオカミ 気比明神)
    誉田別大神(ホンダワケノオオカミ 八幡大神)
    天児屋根大神(アメノコヤネノオオカミ 春日大神)
第三殿:市杵島比売大神(イチキシマヒメオオカミ 厳島明神)

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高野山にはの、女(オナゴ)は入れえへんがのう、この慈尊院までは上れるんやよし。そやよってに、

ここは女人高野と云うんやして。花は知ってたわの。(有吉佐和子「紀ノ川」第一部)

有吉佐和子の「紀ノ川」は九度山の旧家の娘・花が、嫁ぐ日の朝、祖母・豊乃に連れられて訪れた慈尊院の

情景で始まる。

その慈尊院は道の駅「柿の里くどやま」から車で5分ほどのところにあった。

弘法大師空海が弘仁7年(816)高野山開創時に高野山詣での要所として、この地に伽藍を創建したののが慈

尊院の始まりである。

承和元年(834)讃岐国から空海を訪ねて、母の玉依御前やって来たが、高野山は女人禁制の為入山できず

慈尊院に留まった。

月の内9度、山上から空海が母を慰める為通ったと伝わる。

九度山の地名は、これに由来するという。

承和2年(835)2月5日玉依御前は83歳で死去したので、空海は弥勒菩薩を篤く崇拝していた母を追悼し、弥

勒堂を建てた。

慈尊(ジソン)とは弥勒菩薩の別名、古くより子授、安産を願って乳房型絵馬が奉納される。



イメージ 1 北門(表門)
表門(北門)は四脚門
左右の土塀とともに、天文9年(1540)紀ノ川洪水による旧慈尊院境内流失に残ったと言われる




イメージ 2 多宝塔
室町時代末期建てられかけた三重塔初層を江戸時代前期寛永元年(1634)多宝塔として完成したもの。
本尊:胎蔵界大日如来
脇仏:胎蔵界四仏(阿閦如来、宝生如来、不空成就如来、阿弥陀如来)



イメージ 3

                              境  内 
慈尊院境内南側の丹生官省符神社の石段上より慈尊院境内を望む。
中央先(北側)に北門が建ち、右側の南側に拝殿、北側に弥勒堂(一部)が建つ。
写真には入っていないが左側に、多宝塔、鬼子母神堂、大師堂が建つ。



イメージ 4 拝 堂
高野山奥の院燈籠堂を模して弥勒堂の本尊を拝む堂として建てられた。




イメージ 5 弥勒堂
本尊:弥勒菩薩坐像(国宝)秘仏
天文9年(1540)現在紀ノ川河川敷となっている嵯峨浜北方付近から現在地に移され、洪水の流出を免れた建物 重文



イメージ 6 乳房型の絵馬 
子宝、安産、子育てが願う女性が手作りして奉納したもの。
弥勒堂の前の柱や近くの絵馬掛けに多くの乳房型絵馬が奉納してあった。

豊乃は静かに合掌して眼を閉じた。花も倣って手を合わせたが廟の前の柱にぶら下がっている数々の

乳房形に気が付くとしばらく瞑目することを忘れていた。

それは羽二重で丸く綿をくるみ、中央に乳首のように絞りあげたもので、大師の母公と弥勒菩薩を

祀る霊廟に捧げて安産、授乳、育児を願う乳房の民間信仰であった。

実物大の大きさのものから径一寸ほどの雛型まで柱の上の方に沢山吊り下げられてある。
                               (有吉佐和子「紀ノ川」第一部)



イメージ 7 鬼子母神堂と大師堂 



イメージ 8 ゴンの碑 
境内西南隅大師像の隣に建っていた。
ゴンは高野山までの参詣者の道案内して愛された犬。
平成14年(2002)6月5日空海の母・玉依御前の月命日に天授を全うした。

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今年のNHK大河ドラマ「真田丸」(主演:堺雅人)の放送の人気はどうであろうか?

実は:)は、全く見ていないので出来栄えも分からない。

でもBさんから誘われて、戦国の武将・真田昌幸・幸村(信繁)父子が閑居した跡と言われる和歌山の「真田

庵」へ行ってきた。 

承知の様に、真田昌幸・幸村(信繁)父子は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで石田方に与し、上田城でと徳川

秀忠の大軍を食い止めるなど奮戦したが、肝心の関ヶ原の戦いで石田方は破れた。

この為死罪になるところを、徳川方に与していた昌幸の長男(幸村の兄)信幸や信幸の義父・本多忠勝の懇

願により高野山に配流され麓の九度山の真田屋敷で閑居生活をした。

九度山の地は幸村が生涯で一番長く住んだ地と言われる。

昌幸は慶長16年(1611)再起を願いながらこの地で生涯を閉じた。

幸村(信繁)は慶長19年(1614)子・大助ら一族と共に大坂城に入城、大阪冬の陣、夏の陣で奮闘するも元和

元年(1615)茶臼山付近で壮烈な最後を遂げた。

江戸時代中期の寛保元年(1741)大安(ダイアン)上人によって、真田屋敷跡に善名称院(俗称真田庵)が創建さ

れ現在に至っている。

道の駅「くどやま」に車を停め、細い生活路を10分ほど歩くと真田庵があった。

途中NHK大河ドラマ「真田丸」の放送に合わせて開館した「真田ミュージアム」があり、道の両側の民家

には、赤い提灯と小さな折り紙の兜を繋げた飾りをぶら下げ、放送に合わせた地元起しの姿が見られた。



イメージ 1 真田ミュージアム
NHK大河ドラマ「真田丸」(主演:堺雅人)の放送を記念して平成28年(2016)1月開館。
真田昌幸、幸村(信繁)、大助の真田3代の軌跡と14年間の九度山での生活をパネル展示とドラマ仕立の映像を紹介し、大河ドラマの出演者のパネルやドラマで使用した衣装小道具を展示していた。




イメージ 2 真田庵(善名称院)北門
一間藥医門
江戸時代末期の建物
高野山真言宗に属する尼寺


イメージ 3

                               真田庵境内参道 
奉納された赤い旗が立ち並んでいた。



イメージ 4 雷封じの井
幸村が閑居中の真田屋敷に落ちた雷を取り押さえ井戸に閉じ込め、里人の難を救ったと言い伝えられる。




イメージ 5 本堂
本尊:地蔵菩薩    安政4年(1857)再建  八棟造りと言われる城郭風の建物




イメージ 6 真田昌幸墓 
真田幸村(信繁)の父・昌幸は慶長16年(1611)6月病死



イメージ 7 真田地主大権現 
昌幸の墓の右隣に建つ
真田家重代の毘沙門天と真田家三代の霊を祀る。



イメージ 8 土砂堂と位牌堂 
いずれも江戸時代末期の建物



イメージ 9 真田の抜け穴 
真田庵から170mほど歩いた道路端にあった。
真田幸村(信繁)が徳川方の監視の目をかすめて真田屋敷から大阪城に入るために作ったと伝えられていた。
実際は、古墳時代後期の横穴式石室古墳(真田古墳)





   関  連  記  事



t天神坂・逢坂・天王寺七坂  真田雪村戦死跡の碑

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五月十五日(日)の京都は京都の三大祭の一つ「葵祭」で賑わっていたが、実は嵐山では車折神社の祭礼・三船祭が行われている。
今日は無理だったが、何時か見ようと思いながら鴨川沿いに南に下って行った。
宮川町辺りにくると、建仁寺西側に鎮座している「えびす神社」の祭礼の行列に出くわした。
他所からの観光客には有名な祭りに注目しがちだが、多くの社寺がある京都では、こうした小さなお祭りが頻繁に有るのだろうと思いながら行列をカメラに収めた。

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五月十五日(日)Bさんの招待で、京都御所建礼門近くで葵祭の行列(路頭の儀)を見物した。

この後、糺の杜に移動した。

京都御苑を出発した葵祭の行列(路頭の儀)は河原通を通り、鴨川を渡り、糺の杜を抜けて下鴨神社に入る。

緑の杜の中を通る葵祭の行列(路頭の儀)も素晴らしいとBさんが教えてくれたからである。

しかし、良さそうな場所は既に見物人で占められていた。

かろうじて見つけた隙間よりやがて来た行列を見物することができた。

葵祭の行列(路頭の儀)は下鴨神社に入り、14時20分ごろ上賀茂神社に向かう。

13時15分から近くの馬場で走馬神事が行われたのでそれを見物した。

約500mほどの馬場を馬が駆け抜けるというもので、延べ17人の騎手が駆け抜けて行った。

間近で見物していた所為か、非常に迫力あるものだった。

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本列


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本列(勅使の)牛車と予備の牛

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斎王代列

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斎王代

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走馬神事

















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