ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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本堂近くの右手前には、納骨堂、聖観音堂があり、その前に地中から首を伸ばした石造の龍があった。

謂れは分からないが面白いので写真を撮った。

本堂は江戸時代再建の総欅入母屋造りの豪壮な建物であった。

内陣須弥壇には本尊の阿弥陀如来坐像(平安時代作、重文)が安置されていた。

元亀の兵火の後、浄福寺から移されてと言われる丈六の阿弥陀如来坐像で、定朝様式の静かな落ち着きの

ある仏様であった。

この後、客殿と庭を拝観した。

客殿は伏見城の旧殿を移したもので、桃山様式を伝える建物である。

多くの部屋があり、内部を拝観することができる、しかし、内部では撮影禁止であり、外部遠くから撮れ

たものだけを掲載する。

西側には小堀遠州作庭と伝わる客殿庭園があった。

裏山の急傾の山畔部を巧みに利用した池泉観賞式の庭園であった。





イメージ 1 イメージ 2
                            納骨堂とその近くにある石造の龍



イメージ 3 本 堂 
元文4年(1739)再建 重文
昭和61年(1986)屋根修理
桁行7間、梁間8間、正面に3間の向拝を有する。
総欅 入母屋造り
本尊:丈六の阿弥陀如来坐像

びわ湖百八霊場 湖西11番
真より 開ける法の 花なれば 盛んなれかし 嵐吹くとも




イメージ 4

                              客 殿(本堂縁より)
桁行12間、梁間8間 一重 重文 屋根は南面入母屋造、北面切妻造 杮葺き
伏見城の旧殿を大谷刑部少輔吉隆の母と山中山城守長俊の内室が檀越となり移したものと言われる。
南北に長く、南に唐門が建つ。東面と南面には広縁および落縁がある。
東西2列に部屋は配置されており、東面は狩野派によって描かれた襖絵の絵柄によって、北から「控えの間」、「鶴の間」、「猿猴の間」、「賢人の間」及び「花鳥の間」に分かれている。
西面は、最も南に最上の部屋「帝鑑の間(上座の間)」があって、北へ「内仏」、「書庫」、「茶室」、「八畳の間」など多くの部屋がある。
内仏には法勝寺伝来の薬師如来(重文 非公開)が安置されている。




イメージ 5 鶴の間



イメージ 6 花鳥の間 



イメージ 7 茶の間 



イメージ 8 客殿庭園 
江戸時代初期作庭
伝小堀遠州作庭

光秀は、ここにくる度にそう思う。この寺は、千年近くも前に、聖徳太子によって開かれたが、

後に真盛上人が日課六万遍の称名念仏をひろめて、西教寺を復興した。

以来90年、この念仏を称えつつ打つ鉦の音は、毎日毎時たえたことがないという。
                            (三浦綾子「細川ガラシャ夫人」鉦の音)
 
宗祖大師殿の参拝を終え、奥に進むと、本堂前の広場に出た。

隅には、真盛上人誓願の不断念仏一万日記念供養塔や宝篋印塔などの石碑が立ちならんでいた。

また一方の隅には明智光秀の墓や供養碑などが並んでいた。

元亀二年(171)9月織田信長は坂本、比叡山を中心に近江の国の寺院を焼き討ちした。

西教寺も全山類焼の厄に遭った。

その後、坂本城主となった明智光秀は西教寺再興に尽力した。

三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」ではその頃の西教寺の様子を鮮やかに描いている。



イメージ 1 萬日供養塔
真盛上人が西教寺に入寺し、不断念仏の道場として、弥勒菩薩が慈尊仏として世に出られる50億年の来るまでも不断に念仏を相続しようと大誓願を立てた。在世中は度々48日夜の別時念仏会を修行し、上人の滅後一万日(27年4か月)になると万人日法念を修行している。
その記念として供養塔を建立して相続している。




イメージ 2 宝篋印塔



イメージ 3 濃州妻木(明智)一族供養塔
本能寺の変、山崎の合戦、坂本城攻防など続く戦乱の中で、妻木城で代城主・妻木藤右衛門廣忠の兄弟3人は討死した。
また、一族郎党も多数討死したと言われる。
廣忠は、天正10年(1582)6月14日坂本城落城後、明智一族に殉死した人々を西教寺に埋葬供養した後、18日熙子(廣忠の娘、光秀の室、細川ガラシャの母)の墓前せ自刃したと言われる。




イメージ 4 芭蕉句碑
芭蕉没後300年記念句碑
月さひよ 明智が妻の 吐せむ   芭蕉
「奥の細道」の旅の途中、越前丸岡に足を止めた折、光秀と妻熙子のエピソードを耳にしたことを、後に、伊勢の門弟山田又玄(ユウゲン)の妻に贈ったもの。




イメージ 5

                              明智一族墓
天正10年(1582)本能寺の変の後、山崎の合戦に敗れて非業な最後を遂げた明智光秀は一族と共に西教寺に葬られたと言われている。



イメージ 6 明智光秀辞世碑 
順逆無二門 大道徹心源
五十五年夢 覚来帰一元
(大意:修行の道には順縁と逆縁の二つがある。
しかし、これは二つに非ず実は一つの門である。
即ち順境も逆境も実は一つで窮極のところ人間の心の源に達する大道である。
而してわが五十五年の人生も醒めてみれば全て一元に帰するものだ。)
元禄6年(1693)に書かれた「明智軍記」に因るもので、山崎の合戦で敗れた光秀がこの偈を従士の溝尾庄兵衛に託して自刃したと伝えられる。




イメージ 7 聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像
明智一族の墓の隣に建てられていた。
天正12年(1584)造立された像の破損が著しいため、平成16年(2004)復元された。
阿弥陀如来が、25菩薩を従えて、はるか浄土の世界から音楽を奏でながら来迎し、念仏者を極楽浄土に導くという浄土思想によって造立された。



   関  連  記  事



義貞の墓所がある寺・称名寺、坂井市 :月さひて・・・芭蕉句碑

紅葉が美しい参道を登ってい行き、寺標の建つ勅使門前で左(南)に折れると石造多重塔が紅葉の中に佇ん

でおりその先に宗祖大師堂があった。

大師堂は南に面する正門の唐門と石像多重塔近くに通じる北門を持つ築地塀に囲まれている。

少し南に廻って唐門から入る。

唐門から振り返ると琵琶湖が一望できたが少し霞んでいた。


西教寺は、聖徳太子が仏法の師である高句麗僧・慧慈と慧聡のため開創した。

推古天皇26年(618)大窪山の号を賜り、天智天皇8年(669)に西教寺の号を賜ったと伝える。

その後、天台座主慈恵大師良源大僧正・恵心僧都が念仏道場とした。

文明18年(1486)比叡山で修業した慈攝(ジショウ)大師真盛上人が、荒廃した西教寺に入寺し、不断念仏の根

本道場として再興した。

江戸時代には、東叡山輪王寺の末寺に置かれていた。

明治維新後「山門別院となり、

明治11年(1878)明治政府により別派独立が公許され、「天台宗真盛派」の本山となった。

その後、一時天台3派合同したが、戦後、昭和21年(1946)「天台真盛宗」と公称・独立し今日に至ってい

る。

宗祖大師殿は、明治11年別派独立が公許されたのを記念して、宗祖真盛上人像を安置するため建立された

ものである。

唐門から入った境内には、正面には大師堂が建ち、左手に真盛上人御詠歌碑と御遠忌塔んどが、右手には

真盛上人の幼形像・宝珠丸像立ち、その先に杮葺の北門となっていた。

 


イメージ 1 石造多重塔
左(南)手に宗祖大師殿が建つ。



イメージ 2 大師殿唐門
琵琶湖に面している。



イメージ 3 唐門の彫刻 
白木で素朴な中にも豪華な彫刻が施されていた。



イメージ 4 大師殿
真盛上人を奉安する黒塗りの厨子が安置されていた。
扉は閉じられていたので像を拝見できなかった。




イメージ 5 真盛上人御詠歌碑と御遠忌塔



イメージ 6 宝珠丸像 
真盛上人は、紀貫之の末裔で幼名は宝珠丸。
母が地蔵菩薩から宝珠を授かった夢みて上人を身籠ったのでこう名付けたと言われる。




イメージ 7 大師殿北門 
外がに石造多重塔が建つ。
左(西)に折れて、奥に進むと本堂前に至る。


真より 開ける法の 花なれば 盛んなれかし 嵐吹くとも

天台真盛宗宗祖圓戒国師慈攝(ジショウ)大師真盛上人(1443〜1495)は、伊勢国一志郡小倭大仰(オヤマトオオノキ)の

郷(現在三重県一志郡一志町大字大仰)で生まれた。

紀貫之の末裔で幼名は宝珠丸。母が地蔵菩薩から宝珠を授かった夢みて上人を身籠ったのでこう名付けた

と言われる。

7歳の時、伊勢国川口郷の光明寺の盛源律師の弟子となってその寺に移る。

14歳の時、剃髪出家して名を真盛に改めた。

19歳の時、伊勢大神の夢のお告げを受け、比叡山に登り、20年間修業を重ねた。

35歳で権大僧都にまで出世した。

40歳の時、病母を看取る為郷里に戻るが、文明15年(1483)比叡山黒谷の青龍寺に籠った。

文明18年(1486)44歳の時、荒廃した西教寺に入り、堂宇と教法を再興した。

また、日課六万辺称名念仏を修め、朝廷、公家、武士、庶民戒と念仏の布教を行い、戒称不断念仏の根本

道場とした。

明応4年(1495)伊賀西蓮寺で病に倒れ、53歳で入寂した。

後土御門天皇から上人、後柏原天皇から国師、明治天皇から大師 の号を下賜された。

西方行者卜斯山  不断称名日夜閑  水鳥樹林皆念仏  見来安養在人間

<西方行者(真盛上人)がこの山に居住されてから 称名念仏は日夜絶えることなく静かに続けられている。 周囲の小鳥や樹林も皆念仏を唱えているようだ。この山に来てこの世の安住の地即ち極楽浄土があるように。(沢庵「石山行記」)>


天気が良かったので、坂本まで足を延ばし、紅葉で知られる西教寺へ行った。

道路に面する総門から奥の勅使門まで、西に向かって緩やかな上りの参道が続き、その間紅葉が赤く美し

く染まっていた。

総門の前には左に全日本仏教徒滋賀大会碑、右に沢庵禅師の碑が建ち、門を潜ると左右に塔頭寺院が並ん

でいた。

紅葉が盛りであるにもかかわらず、幸いに人の姿はまばらで静かだった。

その様な紅葉の参道をゆっくり上って行った。


後稿で記すが、明智光秀と西光寺は縁が深い。

三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」では、光秀が坂本城主になって西教寺の不断念仏の鉦がなる本堂へ、末

娘玉子(後の細川ガラシャ夫人」らと参詣する様子が描かれている。

西教寺はもう目の前にあった。三人は馬から降りた。しんと静まった。 

しんと静まったあたりの空気に、本堂のほうから鉦を叩く音が聞こえてくる。

その音が一層静けさを深めている。

馬を木につなぎ、更に少し急な坂道を登って、本堂の前に立ち止まった四人は、再び鉦の音に耳を傾け

た。チーン、チーンと、間をおいてひびいてくる。静かだ。いかにも静かである。

秋の陽ざしの中に、鉦はひときは澄んだ音を立てているようであった。
 


イメージ 1 総 門
天正年間(1573〜1592)坂本城主明智光秀が坂本城の城門を移築したと伝えられる。
老朽化が進み、昭和59年(1984)修理が加えられたが、形はそのままで復元した。




イメージ 2 沢庵禅師の碑
総門の(向かって)右前に建てられていた。
江戸時代の禅僧沢庵禅師(1573〜1645)が慶長19年(1614)5月ごろ近江を巡歴し西教寺を訪れた。
それを記した、彼の著「石山行記」の一節(冒頭に示す)を刻んであった。



イメージ 3 全日本仏教徒滋賀大会碑 
平成17年(2005)大津市にて第39回全日本仏教徒滋賀大会が開催されそれを記念したもの。



イメージ 4

                                 参 道
美しい紅葉の参道が約200mほど続いた。




イメージ 5 イメージ 6
                           実成坊(左)と禅林坊(右) 
参道の左右には塔頭寺院が並ぶ。
その中の実成院と禅林坊の表門には「登録有形文化財」のプレートが貼り付けられていた。



イメージ 7 勅使門と寺標 
勅使門の前の寺標の表には
「天台宗真盛派本山西教寺」
右側面には
「天智天皇八年勅賜西教寺」と刻まれていた。
明治11年(1878)明治政府により別派独立を公許された時建立された。

沙沙貴神社参拝を終えた後、東に数分歩いた処に、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)が設計

した旧伊庭家住宅があるというので寄った(帰り、安土駅まで約10分だった)。
 
大正2年(1913)旧住友財閥第2代総理事伊庭貞剛(テイゴウ 1847〜1927)の四男・慎吉(1885〜1975)の邸宅とし

てヴォーリズが設計した和洋式の木造住宅である。

玄関は外観内部とも和風であるが、本体の外観はイギリス民家で見られるハーフティンバー(柱や梁など

を壁面に露出した様式)で、急勾配の天然石のスレート葺き、煙突を備えた洋風である。

しかし、内部は1階は和風を基調とし、2階は洋風を基調とした造りとなっていた。

戦後人手に渡ったが、昭和54年(1979)安土町(当時)の所有となり、保存処置を講じられた後一般公開され

ているものだ。

因みに、現在はボランティア団体「オレガノ」が運営している。



イメージ 1

                             旧伊庭家住宅北側外観




イメージ 2 玄 関
本体と違って和風である。



イメージ 3

                             旧伊庭家住宅南側外観 




イメージ 4 伊賀家住宅と庭
食堂に庭側はサンルームが、
客室に縁側が庭に張り出ている。




イメージ 5 一階廊下
写真ではよく解らないが天井は網代となっている



イメージ 6 一階客室 
写真には入っていないが左手(庭側)は縁側となっている
天井は網代だった。



イメージ 7 一階食堂 
奥に暖炉を備え、南(庭)側はサンルームとなっていた。
ここで、インスタントではあるが、珈琲を御馳走になった。


イメージ 8 二階アトリエ 
写真には写っていないが、出入り口は一間の一枚板の引き戸
今年8月21日テレビ朝日が放映したテレビドラマ「妻と飛んだ特攻兵」のロケをしたという。
青森県の写真館の設定で、主演の成宮寛貴と堀北真希が撮影に臨んだ。
その旨のポスターが展示してあった。




イメージ 9 アトリエの窓 


伊庭慎吉(1885〜1975):

旧住友財閥第2代総理事伊庭貞剛(テイゴウ 1847〜1927)の四男。

若くして絵画勉強のためフランス留学、帰国後、八幡商業学校(現県立八幡商業高等学校)の美術教師、

や沙沙貴神社の神主を就いた。

当時の安土村の村長を2度(1931〜1933、1941〜1945)務めた。

絵画の関係から画家、歌人、俳人などの芸術家との親交があった。

当時のいわゆる風流人であったようだ。

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