ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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京阪電車石山坂本線に並行して、北に向って歩くと、近江神宮の前に出た。

近江神宮は、天智天皇を祭神として昭和15年(1940)、紀元2600年創建された。

約6万坪と言う境内の、鬱蒼とした鎮守の杜の中に続く参道を行くと、色鮮やかな朱塗りの楼門が現れ、

その奥に、山の斜面に内外拝殿、本殿が回廊で取り巻く様に建っていた。

この様な棟続きの神社建築を「近江造り」または「昭和造り」と言われるそうだ。


イメージ 1 近江神宮社頭
紀元2600年に当たる昭和15年(1940)創建された新しい神社である。
境内の広さは約6万坪とか。



イメージ 2 楼 門
鎮守の杜の緑の中に忽然と鮮やかな朱塗りの楼門が現れた。






イメージ 3

                                外拝殿 
祭神は天智天皇(御神名:天命開別大神、第34代舒明天皇の皇子・中大兄皇子)
外拝殿の前に立つと正面に内拝殿奥に本殿が建つ。



イメージ 4

                                内拝殿





イメージ 5

                                内拝殿・本殿
外拝殿からは正面から少し左右にずれると、本殿が望まれた。
拝殿から本殿まで棟続きの社殿建築で、「近江造り」あるいは「昭和造り」と呼ばれている。



イメージ 6 時計館・宝物館 
天智天皇が我が国最初の水時計(漏刻)を造ったことに因んで時計博物館が設けられ和時計に関する資料を展示している。



   関  連  記  事








玉だすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生まれましし 神のことでの つがの木の

いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめしを 天にみつ 大和を置きて おをによし 奈良山を越え

いかさまに 思ほしめせか 天さかる都にあれど 石走る 近江の国の 楽浪(サザナミ)

大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は 

ここと言へども春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処 

見れば悲しも    柿本人麻呂(「萬葉集」巻第一 No29)
 
 
京阪電鉄近江神宮駅で下車し、近江神宮に向かっていると、住宅街が続く中に「大津宮錦織(ニシコオリ)遺跡

を幾箇所か散見した。

遺跡跡といっても、一か所には碑と柿本人麻呂の歌碑がるが、他は建物の跡を示す杭だけで、住宅街の小

公園と言った感じの広場だ。


677年天智天皇は、新羅・唐と対戦した白村江の戦いで敗北に終わった後、突然都を飛鳥から近江に移し

た。

この近江に営まれた宮が大津宮である。

しかし、遷都後わずか5年で崩御し、その後起きた壬申の乱(672)によって廃墟になった。

僅か5年5か月の短命の都であった。

大津宮の位置は諸説あったが、昭和49年(1974)以降の発掘調査によって錦織地区が中枢部分であることが

確定した。

壬申の乱後灰燼に帰し草に埋もれて霞に覆われた近江京址を訪ねた柿本人麻呂は冒頭の歌を詠んでいる。

歌意は、畝傍山の橿原の聖なる神武天皇の御代から お生まれになった歴代の天皇が、次々とそこで天下

を治められた。 その大和を捨てて奈良山を越え、どの様にお思いになってか、天智天皇は遠く離れた田

舎であるのに,楽浪のの大津の宮で、天下をお治めになったそうである。

その天皇の神の命の大宮は、ここだと聞くけど、大殿はここだと言うけれど、春の草がいっぱい生えてい

る。霞が立って春の日が霞んでいる。大宮跡どころを見ると悲しい。



イメージ 1 大津宮錦織遺跡の碑




イメージ 2 柿本人麻呂歌碑



イメージ 3 大津宮錦織遺跡第二地点 

西教寺の参拝を終え、再び総門に戻って来た時、道を挟んだ東側に紅葉が綺麗な寺が目に付いた。

西教寺の塔頭寺院の一つ・安養院だった。

境内に入り、阿弥陀如来坐像を安置する本堂や、弁財天を安置する弁天堂を参拝すると供に、美しく色づ

いた境内の紅葉を拝観することができた。
 

イメージ 1 安養院
西教寺塔頭の一つ
西教寺総門前、道を挟んで東側に位置する。
門前には「忠霊堂」の標柱が建ち、門の右側には「聖天堂」の表札がかかっていた。
尚、この門には「登録有形文化財」を示すプレートが掲げられたいた。



イメージ 2 本堂(忠霊堂、阿弥陀堂)
境内西側、乱石積の壇上に東面にして建つ。
入母屋造り桟瓦葺 正面に一間の広縁としていた。
内部正面に阿弥陀如来坐像を安置し
両脇檀には位牌八千余体を安置している。




イメージ 3 阿弥陀如来坐像 



イメージ 4

                                聖天堂
聖天堂は、享保16年(1731)西教寺本堂の聖地の際発掘された大聖歓喜天の銅像を安置している。
周囲の紅葉が非常に綺麗だった。



イメージ 5 安養の池と弁天堂
比叡山を背景に、三尊石組からなる巨石から流れ落ちる滝は清浄水を表す。
池の北西には亀島を廃止、流水は琵琶湖へと流れる。
奥の高台に弁天堂が建つ。
弁天堂は宝形平面で正面と側面に擬宝珠高欄付の縁を廻らし、軒は深い。



イメージ 6 弁財天
弁天堂に安置する

慈攝大師二十五霊場第一番
西にます 仏の誓い 教えみよ 寺は真に 盛んなるべし


西教寺本堂の北隣は客殿とその唐門となっている。

更にその左前は、高台にある宗祖真盛上人の御廟に通じる急峻な石段となっていた。

その石段の前には、真盛上人の六字名号が彫り込まれた「名号石」と放生池に架かる石橋があった。

石段を登った先には真盛上人の御廟があった。

和様に唐様を混ぜた折衷様の宝形造りのお堂の中に、真盛上人のお墓である五輪塔が安置されていた。

御廟は境内の高台にあるため、そこからは境内越しに明媚な琵琶湖の風景を一望することができた。
 

イメージ 1 名号石
宗祖真盛上人の六字名号



イメージ 2 御廟前の石段
御廟は急峻な石段を登った高台にある。



イメージ 3 御廟石段途中から下の眺め 



イメージ 4 御 廟
天保13年(1843)建立
桁行・梁間2間の宝形造1間の向拝付
正面中央には細かい格子に花弁状の花狭間桟唐戸
両脇に花頭窓を配している。
御廟の正面にはの大師号の額
その横に御詠歌が掲げてあった


イメージ 5 御 廟
様式は和様に唐様を混ぜた折衷様
堂内に真盛上人のお墓である五輪塔が安置されている。
天台真盛宗宗祖圓戒国師慈攝(ジショウ)大師真盛上人は明応4年(1495)伊賀国西蓮寺で病に倒れ、53歳で入滅した。
後土御門天皇から上人、後柏原天皇から国師、明治天皇から大師 の号を下賜された。



イメージ 7 屋根の上の護猿
向拝の左右の端に護猿が置かれている。




イメージ 6

                           御廟前からの眺望 
御廟前からは西教寺の境内越しに琵琶湖の風景が広がり、近江富士(三上山)が望まれた。
 
本堂、客殿を拝観した後、書院、大本坊(庫裏)に廻り、付随する庭園を見て回った。

大本坊を出た脇に、「兼法勝西教寺」の寺標が建っていた。

西教寺は、正しくは「天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺」といい、伝奏18年(1590)白河天皇が創建し

、その後衰退していた法勝寺の法灯を継いだことによる。

寺標はそれを示しているのであろう。

大本坊はを出て、本堂の東側に向かうと袴腰付の重量感のある鐘楼が建っていた。

中の梵鐘は、明智光秀が寄進した坂本城の城鐘で重文で、昭和62年(1987)まで衝かれていたと言うこと

だった。



イメージ 1 書 院




イメージ 2 書院庭園(穴太衆庭園)



イメージ 3 裏書院庭園 
平成元年(1989)作庭



イメージ 4 大本坊庭園
江戸時代作庭
三尊石組の枯山水の石庭




イメージ 5 大本坊
昭和33年(1958)改築


イメージ 6 「建法勝西教寺」寺標 
法勝寺は承暦元年(1077)創建された白河天皇の勅願寺で七堂伽藍完備した名刹であった。
その後、度々災禍や兵火に遭い、天正18年(1590)後陽成天皇は、西教寺9世真智上人に西教寺が法勝寺を
兼併せよとの綸旨を下賜され、薬師如来像(重文 客殿に安置)などをした。
それ故、西教寺は正しくは「天台真盛宗総本山戒光山兼法勝西教寺」という。



イメージ 7 鐘 楼 
本堂の東側に棟を南北に向けて建つ。
天保2年(1831)築
桁行3間、梁間2軒 袴腰月入母屋造本瓦葺
梵鐘(平安時代 重文)は光秀寄進で、坂本城の城鐘と言われている。

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