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阿武川下流の三角州上に位置する萩城城下町は慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦に敗れた毛利輝元が 安芸広島を追われ、すべての領土を没収され、長子秀就(ヒデナリ)が改めて周防・長門2か国36万9千石が 与えられ萩を本拠とする。 これが、長州毛利家の出発点となった。 輝元は慶長9年(1604)指月山に城を、町割りを行い、萩藩経営の安定に努めた。 寛永2年(1625)萩城内で死没。 その輝元は萩城旧三の丸の堀内の天授院墓所に眠っている。 天授院墓所には輝元と夫人および殉死した長井治郎左衛門の墓石がある。 これらの墓は花崗岩製の五輪塔形式である。 ここは以前、輝元の隠居所・四本松邸があった所で、輝元死後天授院(輝元の法号による)が菩提寺として 建てられたが、明治2年(1869)廃寺となり墓所のみ残った。 堀内街路風景 長さ約64mで敷石、石燈籠も良好な状態だった。 唐門を潜って直ぐ右手にあった。 輝元夫妻墓所近く、向かって左手にあった。 輝元が亡くなると、深い恩を感じていた元房も後を追って殉死した。 元房が大変可愛がっていた猫は、元房の死後、この墓から離れようとせず、49日の法要の日に舌を噛んで死んでいたと伝える。 五輪塔の高さは輝元が2.1m、夫人が1.8mといずれも大型である。 毛利輝元は、天文22年(1563)1月22日毛利隆元の長男として安芸国吉田郡山城(現広島県安芸高田市)に生 まれた。 毛利元就の孫にあたる。永禄6年(1563)父隆元の死去に伴い家督を継ぎ、祖父元就の養育を受けた。 織田信長や豊臣秀吉と覇を競い中国地方8か国112万石を領有する大大名に成長し、天正17年(1589)広島に 居城を築いた。 豊臣政権下では、五大老となり、権勢を誇ったが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに敗れ、周防・長門2か国 36万9千石に削封された。 慶長9年(1604)居城を萩に定め、同年11月11日萩城に入った。 萩開府にあって、城下町の建設を推し進めるとともに萩藩経営の安定に腐心した。 寛永2年(1625)4月27日萩城内で死没、享年73。 天授院墓所近くに建つ。 毛利元徳が鎌倉材木座に建てた別邸の表門。 明治の建築であるが規模は大きくて雄大。 桟瓦葺、寄棟造 大正10年(1921)別邸と共に萩市東田町に移されたが、昭和49年(1974)再び現在地に移築された。 維新の大業を伝える香山公園、山口市 香山墓地(毛利家墓所)
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萩城下町武家屋敷を廻り、外堀を渡って旧萩城三の丸・堀之内地区に入った。 この辺りには、藩政時代は藩の諸役所や毛利一門、永代家老、寄組などの大身の侍屋敷が立ち並んでいた ところである。 しかし、それらの邸宅も明治以降ほとんど姿を消し、わずかにその地割を示す土塀や長屋門が残り、往時 を偲ばせている。 現在、この堀内地区は重要伝統的建造物保存地区に指定されている。 また土塀・石垣越しに見える夏みかんは士族救済のため広大な屋敷跡に植栽されたものであり、近代萩の 歴史を物語っていた。 萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける堀。 元和8年(1622)に完成したと言われている。 約740mある。 城下町側から町屋が張り出してきたため、堀の幅は40mから25m、16mとじだいにつれて狭くなった。 脇戸付高麗門 切妻造、高さ約7m 平成16年(2004)復元完成、平成23年(2011)周辺整備 北、中、平安古(ヒヤコ)の3か所にあった総門(三の丸の入り口)の一つ。 益田家は萩藩永代家老(12,062石余)。 幕末の当主親施(チカノブ)は、13代藩主毛利敬親(タカチカ)を援け藩政改革を行ったが、元治元年(1864)禁門の変の責任者として切腹させられた。 繁沢(ハンザワ)家は、阿川毛利家(7,391石余)の分家で萩藩寄組に属した。 萩藩永代家老益田家の庶流で、大組士筆頭(1、530石余)周布(スフ)家の萩屋敷表門。 腰部を下見張りとし、基礎に見事な切石積があり、上部は白漆喰大壁造。 江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を残している。 土塀は延長231.7mあり、往時の姿を良く留めている。 問田益田氏は萩藩永代家老益田家の分家筋にあたり、給領地(4,096石余)を問田(現山口市)に持っていたのでこう呼ばれた。 萩藩永代家老福原家(11,314石余)の萩上屋敷の表門である。 建造年代は江戸中期ころと思われる。 萩に現存する武家屋敷の門はほとんど門番所のある長屋門であるが、この門は珍しく門番所がない。 堀内街路 |
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東光寺境内に隣接して毛利家東光寺廟所があった。 廟所に至る参道には、殉難士碑と古井戸続いて維新殉難者の墓が並ぶ。 奥の廟所小門を潜ると、老杉・松の大樹が生い茂る周囲の中に、萩藩主3代吉就(ヨシナリ)、5代吉元。7代重 成、9代斉房、11代斉元並びに各夫人10基の他、枝葉近親者20余基の墓があった。 墓の周囲には、玉垣16か所、5藩主および吉元の嗣子宗元の業績を記した神道石碑が6基、鳥居5基、重 臣諸家が献上した石燈籠500余基が建っていた。 藩主夫妻・一族関係者の墓は、唐破風の笠石を乗せた角柱形で、特に藩主夫妻のものには家紋が陽刻して あった。 なお、萩市内には毛利家墓所としてはこの他として、萩藩祖輝元の墓がある「天樹院墓所」、初代藩主と 偶数代藩主の墓がある「大照院墓所」がある。 毛利家墓所 毛利家墓所 毛利家墓所 毛利家墓所に至る参道には、殉難士碑と古井戸続いて4大夫と11烈士ら維新殉難者の墓が並んでいた。 元治元年(1864)7月19日に勃発した禁門の変と同年8月下関戦争の敗北により,藩論は幕府へひたすら謝罪 降伏に転換し,尊皇攘夷派(急進派)が一掃されて恭順派が藩の政権を握った。 第一次長州出兵が迫る中、益田右衛門介、国司信濃(クニシシナノ)、福原越後の3家老が禁門の変の責任を問わ れ、同年11月11日自刃を命ぜられ、益田、国司は徳山で、福原は岩国で夫々自刃した。 また、12月25日萩で家老の清水清太郎も自刃を命じられた。 また、10月24日尊皇攘夷派の11人が野山獄に投獄された。 11月12日に竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛、宍戸左馬之助の4人が斬首され、 12月19日前田孫右衛門、毛利登人(ノボル)、山田亦介(マタスケ)、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助、松島 剛蔵の7人が斬首された。 明治維新後、旧藩士杉孫七郎、杉民治(タミジ 吉田松陰の兄 梅太郎)らは殉死した4大夫と11烈士の墓が 各所に散在し、香花も絶えて十分な世話もできない状態であることを見聞きし、 明治22年(1889)彼らの招魂墓を建てた。 明治31年(1898)には禁門の変・萩藩征討の起因の責を感じて山口で自刃した周布政之助の招魂墓も同所に 建立された。 なお、墓所の右隅には撰鋒隊士のため、明木権現原で暗殺された桜井三木三、香川平助、冷泉五郎等鎮静 会議員の墓があった。 |
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日本は当時、檀家制度などによって、禅宗に限らず、仏教界全体が停滞していたともいえる。 そこに中国から清新な風を吹き込んで、日本に一種のカルチャーショックを与えたのが隠元だった。 (五木寛之「百寺巡礼」第8巻山陰・山陽) 友人Hと秋吉台からバスで萩に入った。天気は意外にもよい。 は昨年の同時期に訪れているので案内する形だ。東萩駅前でレンタル自転車を借り、先ず松陰神社などを廻り、ついで毛利氏菩提寺東光寺にきた。 萩のような地方の城下町で見ることが珍しい中国風の寺院であった。 東光寺は山号を護国山と号する、黄檗宗の寺院である。 隠元の孫弟子・慧極(エゴク)道明に帰依した萩藩3代藩主毛利吉就(ヨシナリ)が、松尾村(現下関市松尾)にあった 東光寺を移転する形で、元禄4年(1691)・慧極(エゴク)を開山に迎え建立した。 吉就(ヨシナリ)没後、ここに墓所を毛利氏菩提寺となった。 黄檗三叢と林随一と称えられ、文化年間(1804〜1818)の最盛時には全山塔40塔を数えたと言う。 しかし、明治維新後、総門、三門、大雄宝殿、鐘楼、方丈・庫裏、土蔵だけを残し、他の伽藍はすべて取 り壊された。 伽藍は、中国明代末から清代初にかけての黄檗伽藍様式で、伽藍配置は竜の形を表したものと伝えられて いる。 3間2戸の八脚門、 重文 中央高屋根屋根、左右低屋根段違い本瓦葺 棟の両端に摩迦羅(マカラ)を飾り、黄檗宗特有の形式 中央に元禄6年(1693)の慧極(初代住職)筆の「護国山」の扁額が掲げてある。 門の建立も同じ頃と思われている。 右脇に「不許葷酒入山門」の石票が建つ。 安永3年(1774)年建立 毛利家歴代の供養塔とか 東光寺山門 文化9年(1812)萩10代藩主毛利斉熙(ナリヒロ)が寄進した楼門 重文 左右に上層部に上るための山廊があり、二階には毘廬舎那仏 十八羅漢などを安置 全体の構造の形式は禅宗様 規模が大きく地方寺院の山門として見ごたえがある。 元禄7年(1694)4代藩主毛利吉広(ヨシヒロ)が梵鐘を寄進しているので、その時同時に建立されたと思われる。 重文 黄檗宗特有の一重裳階付入母屋造本瓦葺 大雄宝殿 元禄11年(1698)4代藩主毛利吉広(ヨシヒロ)によって建立。 一重裳階付の仏殿形式 屋根は入母屋造 本瓦葺 棟中央に宝珠、両端に鯱を置いている。 堂内土間は漆喰叩仕上げ、建物中央に格子天井を張るなど、黄檗宗建築の姿を採っているが細部を見ると一般的な唐様の手法が見られる。 大雄宝殿中央に安置されている本尊釈迦如来坐像 左右に脇侍として、迦葉尊者立像、阿難尊者立像 多くの聯や額で荘厳されている。 鬼瓦は棟を整える目的と魔除けとしての意味を持つと言われている。 大雄宝殿には24個もの鬼瓦が各棟に据えられている。 昭和40年(1965)放送されたNHK大河ドラマ「太閤記」(主演:緒方拳)のタイトルバックに使用されたそうだ。 |
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秋芳洞の本洞が終わり、更に黒谷支洞に入る手前にエレベーターがあった。 そこからは、約80m上の地上に出入りするためのものだ。 それを使って地上に出、更に数分歩くと、秋吉台全体が眺められる展望台に着いた。 この広がるカルスト地形の草原は、4,502haが国定公園、1,384haga特別天然記念物に指定されている。 展望台からは、草原の中に白い石灰岩が露出した無数に露出した雄大な景観が一望できた。 ただ、天気は曇天だったので、風景の色彩が単調であった。 説明板によれば、この日本最大級のカルスト台地の石灰岩は、約3億5千万年前に南方の海でサンゴ礁とし て誕生したものと言う。 暫く秋吉台を眺めた後、再びエレベーターで秋芳洞に入り、黒谷支洞を行った。 黒谷支洞は本洞に比べると、洞窟の規模はぐっと小さくなったが、黄金柱、岩窟王、五月雨御殿、くらげ の滝のぼり、マリア観音など名付けられた岩があった。 黒谷支洞入口にあり目を見張った。 秋芳洞第一の美観と言われる。 高さ15m、幅4mの巨大な石灰華柱 磐天井から流れ出た地下水が岩壁を伝い、その部分に石灰分が付着し、何万年もの長い年月かけて巨大な柱を築き上げたもの。 |
は昨年の同時期に訪れているので案内する形だ。

