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瑠璃光寺の西側は緑豊かな香山公園である。 香山公園には、幕末の活動の場を伝える建物が移築保存されていたり、維新の中心的役割を果たした毛利 家の墓所があった。 時期的な所為かもしれないが、人影は少なく静寂であった。 なお、香山公園は、その西隣の洞春寺や東側の瑠璃光寺の間を指していると思ったが、案内図などを見る と、両寺を含めた全体を香山公園と言うのかもしれない。 元々は山口の旧家阿部家の離れで、道場門前の一の坂川の河畔にあったので「枕流亭(チンリュウテイ)と呼ばれた。 慶応3年(1867)9月薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)、小松帯刀、大山格之助らが山口に訪れた。これに対し長州藩は木戸準一郎(小五郎、孝允)、広沢真臣、伊藤俊輔(博文)品川弥二郎らが迎え、ここ枕流亭にて薩長連合の密議を重ね、連合討幕軍結成した。 枕流亭はその後数度移転し、昭和35年(1960)現在地に移された。 文久3年(1863)13代長州藩主毛利敬親(タカチカ)は藩庁を萩から山口に移し、政事堂を建てた。 その時、政事堂近くの一露山の麓に茶室を設け、「露山堂」と名付けた。 刑親は茶事にことよせて、身分に関係なく、この一室に集めて討幕王政復興の大業について密議を凝らしたという。 廃藩後、他に移築されて持ち主も数人変わり腐朽が甚だしかった。 これを知った敬親の側近を長く勤めた品川弥二郎が有志を募り、建物を買収し、明治24年(1891)現在地に移したものである。 昭和38年(1963)と昭和48年(1973)に増築が行われ、現在も茶室として使用されている。 露山堂が、明治24年(1891)現在地に移された時作庭された。 参道の石畳を強く足踏みするとか、手を叩くと音がよく反響する。 それ故、鴬張りの石畳と言われている。 しかし、偶然そうなっただけで人為的に作られたものではないらしい。 13代長州藩主毛利敬親が文久年間に居城を萩から山口に移して以降墓地として使用する為造成された。 墓所には7基の墓がある。 中央に敬親夫妻の墓である。 高さ約1.8m、径約5.8mの円墳で、前面に墓石がり、「贈従一位大江朝臣敬親卿墓」と刻んである。 敬親夫妻の墓の(向かって)左に14代元徳夫妻の墓、右に15代元昭夫妻の墓、その右に毛利本家歴代諸霊之墓が山林を背に整然と並んでいた。 尚、毛利本家墓所としては、萩に、旧天授院、大照院、東光寺毛利家墓所の3か所ある。 明治4年(1871)3月28日山口で没した毛利敬親の偉業を伝える為、明治29年(1896)明治天皇が碑の建立を命じた。 篆額は彰仁親王の書、文は川口剛が撰し、それを山口市大内出身の書家野村素介が書いた。 文字(楷書)の美しさは申し分なく、日本に数基ある勅撰銅碑の内最も美しいものとして有名。 案内図 |
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今は盛りの梅林と庭園の間の道を登って行くとる瑠璃光寺の山門に着いた。 門の前には瑠璃光寺が仁保に在った頃の名残の石殿が置かれてあった。 山号を記した扁額が掛る山門を潜ると正面高台に本堂が建ち、本堂前の石段の脇には向かって左に「身代 わり地蔵」右に後生車があった。 山門と本堂を繋ぐように回廊が廻っており、右手に袴腰付鐘楼が建っていた。 廻廊の外の右側高台には、金毘羅神社が鎮座していた。 瑠璃光寺は山号を保寧山(ホネイザン)とする曹洞宗の寺院で、陶弘房の菩提寺である。 陶氏は大内家の筆頭家老で、代々周防国の守護代を務めた。 陶弘房は応仁2年(1468)応仁の乱で京都の相国寺戦死した。 その夫人・妙栄大姫が夫の菩提を弔うため、弘房の念時仏の薬師如来を本尊として山口の奥地仁保に文明 3年(1471)建立したもので、当初安養寺と呼ばれていたが、明応元年(1492)瑠璃光寺と改めた。 現在地に在った香積寺が萩に移ったので、その跡地に元禄3年(1690)瑠璃光寺が移り現在に至っている。 正面に「保寧山」の扁額 左右に回廊が延びている 山門の向って右前に置かれている。 瑠璃光寺が仁保にあった頃、当山16世重堂專宗大和尚が寺の鎮守として慶安3年(1650)造立(刻銘有) 瑠璃光寺本堂 前に、わが身をすり減らして人を救うという仏心を象徴する「大きな杓子と擂粉木」があった。須弥壇には本尊薬師如来を中尊とする薬師三尊像、更にその両端に達磨大師(向かって左)、大権修理菩薩(同 右) が安置されていた。 梵鐘は良く分からないが、説明板には次のように記されていた。 梵鐘は天文元年(1532)吉敷郡仁保庄大畠村(山口市)にあった光明禅寺のものとして鋳造された。光明禅寺が廃寺となった時瑠璃光寺に移ったもの。 本堂左前に植え込みの間に置かれていた。 手水鉢の四方の字ろ真ん中の「口」を組み合わせると 「吾唯足知(ワレハタダタルヲシル)」となる。 本堂右前に置かれている。 我が国で一番古いとされる奈良薬師寺の仏足石を模したもの 祭神:大物主神、崇徳天皇 貞観3年(正平19年、1364)大内氏が隆盛を誇る頃讃岐国琴平山(香川県)にある金毘羅神社本宮の御分霊を勧請し大内一族代々の鎮守の神として祀ったのが始まり。 金毘羅社からの境内の眺め 鐘楼、回廊、山門等が良く見える。 本堂は残念ながら手前の庫裏に隠れて見えない。 五重塔は視野から外れている。 |
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義隆にいたって大内氏の富強は絶頂に達したが、にわかに重臣陶晴賢が反乱し、没落した。 天文20年(1551)9月1日義隆自刃したが、―中略― この兵乱で弘世以来二百余年のこの小京都は火の 中にほろんだ。いまは大内文化の遺構というのは、ほとんどない。わずかにいまからゆく瑠璃光寺 の五重塔ぐらいのものであろうか。(司馬遼太郎「街道をゆく 1」) 国道9号を横断し、緩やかな坂の道を歩いて行く。 一の坂川を渡って左手に折れると南面の山腹に瑠璃光寺が建っていた。 境内に入ると入ると、梅林、池、ツツジなどを植えこんだ庭園が広がり、正面先に山門・本堂が建ち、 右手には前を庭園、背景を山林の緑の国宝・五重塔が建っていた。 もともとここには大内義弘が応永2年(1295)建てた香積寺(コウシャクジ)があった。 大内義弘が応永6年(1399)応永の乱を起し、泉州堺で戦死した。 五重塔は、後を継いだ弟の盛見(モリハル)がその菩提を弔うため、香積寺に建てたものである。 嘉吉2年(1442)頃完成したと言われている。 慶長9年(1690)毛利輝元が居城を萩に移すのに伴い、香積寺も解体されて萩に移ることになった。 五重塔も解体されそうになったが、山口町民が嘆願書を出して解体移築を免れた。 香積寺の址地に、元禄3年(1690)仁保にあった瑠璃光寺が遷り、瑠璃光寺の五重塔として今日に至ってい る。 左右に1対の門柱が立つ。 向って左手前に「不許葷酒入山門」と刻んだ石標が建っていた。 池畔から眺めた五重塔 高さ31.2m、屋根は檜皮葺、総檜造、2層のみ回縁が付、 国宝 各層とも軒の出が深く、屋根の勾配は緩やかで、形状が優美なことで有名 五木寛之がその著「百寺巡礼」第8巻で記しているように、各層の軒先の風鐸は女性のイヤリングの様で、屋根のラインの優美さをまし、屋根の上の水煙は本物の煙が建ちあがっているようだ。 本堂近くから眺めた五重塔 瑠璃光寺の五重塔は醍醐寺、法隆寺と共に日本3名塔に数えられている。 手前の建物は回廊と袴腰鐘楼 大内弘世像と五重塔 梅林の南西に大内弘世(ヒロヨ)の騎馬像が立っていた。 大内弘世(1324〜80)は周防・長門の守護、正平15年(延文5年、1360)本拠を山口に移し、京都に模した都市計画に基づき市街整備を行い、後の大内文化に繋がる基礎をきずいたので、山口開府の祖とされる。 (長州は、いい塔をもっている)と惚れ惚れするおもいであった。 長州人の優しさというものは山口に八街九陷(ハチガイキュウエン)をつくった大内弘世や、ザビエルを保護し た義隆などの大内文化を知らねばわからないような気がする (司馬遼太郎「街道をゆく 1」)
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大内氏がこの山口に首都をおいたのは、南北朝のころの弘世(17世)のときであった。 弘世は京の公家の娘を夫人にしたというから、大内氏の公家好きは古い。 ―中略― この大内弘世の夫人は山口に下ってからも都が恋しくて泣き暮らしていた。 弘世、それをあわれみ「されば都を此の地に遷すべし」として都市設計を改めて京都風にし九重の 形象をとり、洛中洛外の山川を模し、さらに仏寺神廟まで京風にし、八街九陌を拓いた。 (司馬遼太郎「街道をゆく 1」) 友人のHと早春の山口市内を、瑠璃光寺を目指して萩往還(県道62号線)をぶらぶら歩いている。 途中大内館址の龍福寺の拝観を終えると、その北隣の八坂神社社頭に出た。 この神社は、今から600年ほど前、山口開府の祖と言われる大内弘世(1325〜80)が京都から勧請したもの であるという。 今でも7月20日から7日間にわたって行われる「祇園祭」には、大内氏時代から伝わる神事「鷺の舞」が奉 納されるとのこと。 大内氏と縁があるので、何か痕跡でもあるのではと思って境内に入った。 祭神:素盞鳴尊、稲田姫命、手名槌命、足名槌命 大内義興が永正17年(1520)高峰山麓に建立したものを幕末、藩庁を山口に置いたのを機に現在地に移築した。 朱塗りの本殿は三間社流造、檜皮葺 重文 昭和40年(1965)11月建立 天文年間(1532〜54)大内義隆が京から迎えた北の方を慰める為、しばしば詩歌管弦の遊びを催した。 或る時、その席で7人の若い殿上人が一首ずつ歌を作り、次々と箏で弾き歌いすることが行なわれた。 これが箏の組歌の始まりである。 明治37年(1904)5月建立 盃状穴(ハイジョウケツ)は、性のシンボルとして死者をよみがえさせることや豊作を願うことを意味する刻印と考えられている。 今日でも、一種の「願」をかける場として使用されている。 |
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十朋亭から北に向うと龍福寺が建っていた。
瑞雲山と号する曹洞宗の寺で大内義隆の菩提寺である。説明板のよれば、もとは山口市白石の地にあったが、天文20年(1551)兵火に罹りそのままになっていたも のを、弘治3年(1557)毛利元就の長男隆元が、大内館址に大内義隆の菩提寺として、後奈良天皇の綸旨を 受け再興した寺である。 明治14年(1881)火災に遭い、ほとんどの建物を焼失し、その後現況に復興したもの。 境内東南側に発掘調査で見つかった池泉庭園が復元整備されていた。 両側桜並木の100mほどの参道の先には龍福寺の山門が建っている。 参道の脇に再現された石造の井枠 天正19年(1550)ザビエルは大内義隆に謁し、布教の許可を得て、大殿大路の傍らで初めてキリスト教の布教をしたと言われている。 山門を潜り、境内正面に本堂その右に庫裏、左手に資料館が建っていた。 手前(向かって)右手に大内義隆辞世歌碑、左手に大内義隆主従之追善供養塔があった。 天文20年(1551)重臣陶晴賢の謀反により大内義隆は大内御殿から長門の大寧寺に逃れた。 この時、大寧寺の住職異雪慶殊和尚の弟子になり、金剛経の経文を引用した辞世を詠んで自刃した。 討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露亦如電応作如是観(ニョロヤクニョデンオウサニョゼンカン) 大内義隆主従之追善供養塔 平成12年(2000)は大内義隆の450回大遠忌に当たり、それに因んで建立された。 正面奥の宝篋印塔は長門市大寧寺にある義隆の墓を原寸大に複製したもの。 左側の十三重塔は義隆に従って戦死した冷泉隆豊などの家臣や公卿の諸聖霊を供養 文明11年(1479)建立と言われている。 重文 桁行、梁間各5間、入母屋造、檜皮葺、正面に蔀戸がある。 旧本堂は明治14年(1881)火災で焼失したので、明治16年(1883)大内氏の氏寺であった吉敷(ヨシキ)郡大内村(現山口市大内御堀)の天台宗の興隆寺から釈迦堂を移築し本堂に改造。 平成17年(2005)から平成23年(2011)に修理保存工事が行われ、建物当初の室町時代の姿に戻された。 大内義隆公「馬上展望」像、阿弥陀如来像、大内氏歴代当主画像(江戸時代)などが展示してあった。 冒頭でも記したが、龍福寺の地は大内館址であるといわれている。 それゆえ、ここは大内弘世(ヒロヨ)が、正平15年(延文5年 1360)頃、大内御堀(ミホリ)から山口に移り、館を さだめたところである。 大内氏は弘世以後200余年歴代がここで政務を取り、その領国は防・長・芸・備・石・豊・築の7か国、中 国九州地方まで及び、この為山口は西日本の政治経済の中心地となった。 また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異文化の移入した。 京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人がこの館を訪れた。 このことによって、当時の山口は京都を凌ぐほどの富と文化を誇ったと言われている。 しかし、天文20年(1551)大内義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡した。 その後、毛利元就が陶晴賢を滅ぼし、元就の長男隆元が、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため建立 したものだ。 館は、百間四方堀と土塁で囲まれた中に造られていたと言われている。 現在はほとんどその面影を見ることは出来なが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができる。
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