ぶらりぶらり見て歩記

最初の目論見とは異なり、最近は寺社巡りが主になりました(^o^)

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友人Hと山口に来た。山口、秋芳洞、萩の旅をしようとするものだ。

山口駅を降り、外に出る。

駅前には大きな大内雛一対と国宝瑠璃光寺の五重塔の模型が展示されていた。

観光パンフレットを片手に、ここから北東方向に30分ほど歩くと、幕末志士たちが利用し、明治初期吉田

松陰の兄・杉民治(杉梅太郎)が滞在し裏で塾を開いたという「十朋亭」があった。

この辺りは戦災に遭っていないのか古民家や洋館が残っていた。



イメージ 1 山口駅前




イメージ 2 十朋亭(ジュポウテイ)入口
醤油業を営む萬代家の離れ。
享和年間(1801〜1804)に建てられ大部分は当時のまま。
大阪の儒学者篠崎小竹が、萬代家の当主に依頼され、萬代家が亀屋と呼ばれていたことから、易経の一文「十朋之亀」を引用して十朋亭と名付けた。



イメージ 3 十朋亭 
幕末、萬代家は志士たちの活動を援助していたので、ここを高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞、伊藤俊輔などの多くの志士が利用した。



イメージ 4 十朋亭




イメージ 5 旧野村家住宅
明治19年(1886)酒造商家として建てられた。
昭和59年(1984)野村家から山口市に寄贈され
平成2年(1980)改築整備され、
山口ふるさと伝承総合センター「まなび館」として活用されている。



イメージ 6 河村写真館 

北から麩屋町通りを降りてきて、松原通りで西に折れた。

比較的行き交う人の少ない松原通りを西に向かって歩いていると「因幡薬師」の標石が建つ不明門(アケズ)

通りにさしかかった。

不明門(アケズ)通り北端に因幡堂こと平等寺が建っていたので参拝に訪れた。

平等寺(因幡堂)の起こりは、「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)に詳しく書かれているそうだが、知ると

ころの概略は次の通りだ。

長徳3年(997)因幡国司・橘行平が任を終えて帰路の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(カルツ)の海中から

薬師如来像を引き揚げ、安置した。

ところが、その薬師如来像が行平の後を追って京に飛来してきた。

長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれを祀った、此れが因幡堂の始まりである。

この霊験譚は広く親しまれ、歴代天皇を始め、一般庶民の深い信仰を受けた。

承安元年(1171)高倉天皇より「平等寺」と命名された。

また、歴史的事実として「御堂関白記」寛弘二年(1005)十二月二十九日の条に、橘行平は因幡守に任字ら

れたことが記されている。

堂宇は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初期に再建された本堂には、度重なる火災に

も拘わらず、伝えられてきた本尊薬師如来立像(藤原時代 重文)が安置されている。

本尊薬師如来像は、嵯峨清凉寺の釈迦如来像、信濃善光寺の阿弥陀如来像と共に日本三如来に数えら

れて信仰され、「因幡薬師」、「因幡堂のお薬師様」と親しまれている。



イメージ 1 平等寺前の不明門通り
「因幡薬師」の寺標の先(北奥)に因幡堂となっている。
不明門(アケズ)通りの名は、源平争乱時代高倉天皇が因幡堂の直ぐ南「東五條院」にお住まいになられたので、御所に遠慮して南門を開けなかった為。




イメージ 2 平等寺
現在の南門は簡素な冠木門である。
正面に本堂(因幡堂)が建つ。
平等寺は、福聚山と号する真言宗智山派の寺院
「因幡薬師」、「因幡堂のお薬師様」と親しまれている。
寺宝としては「小督局の琴、硯箱」等がある。



イメージ 3

                              平等寺本堂 
明治14年(1881)から5年の歳月をかけて明治19年(1886)再建された。
本尊薬師如来立像(藤原時代 一木造、重文)
京都12薬師霊場1番霊場、京都13仏第7番薬師如来霊場



イメージ 4 本堂正面上部
本堂正面に吊り下げられている鰐口の上近くに懸仏が掲げられていた。




イメージ 5 観音堂
本堂に向かって左手に建つ
本尊十一面観音菩薩像
堂内には本尊のほか、弘法大師像、毘沙門天像、如意輪観音像、不動明王像、神変大菩薩(役行者)像を安置。

洛陽33観音第27番霊場
まよいいで  ここは因幡の  ひがしむき                こころは西へ   はこびぬるかな

Hさんと、ぶらぶら麩屋町通りを南に歩いて行くと、やがて松原通りにさしかかった。

その交差点西南角に「明王院不動寺」が建っていた。

一見変哲もない不動堂であるが、説明板に記されている由来が面白かった。

明王院不動寺は青蓮山と号し、真言宗東寺派の寺で俗に「松原不動」という。

持統天皇5年(691)に道観大徳が開基した法相宗の寺であったが、後弘法大師が自作の「石仏不動明王」を

安置してから現宗に改まったといわれている。

平安京造営の時、桓武天皇は、王城鎮護のため、平安京の東西南北に四つの磐座(石蔵)に経巻を収めた。

明王院はその四岩倉の一つで「南岩倉」と称したと伝えられている。

天暦年間(947〜957)加茂川の氾濫に遭い、学舎ことごとく流没した。

一時比叡山の苔筵(タイエン)法師によって再建されたこともあったが、応仁の乱で荒廃し石像も塵芥の中に埋

もれてしまった。

天正年間(1573〜1592)豊臣秀吉は聚楽第造営に際し、ここから苔むした本尊不動明王像を得た。

秀吉は、この石像を聚楽第に収めたところ、夜な夜な不思議な光を放ったので霊感を感じ、旧地に学舎を

建立し、これを再び奉安したという。
 
イメージ 1

                              明王院不動寺

日曜の昼過ぎ、天気がはっきりとしないので、気が進まなかったが、Hさんと京都に出てきた。

15時頃、京都四条橋にくると、西南詰になスパニッシュ・バロック風の趣のある洋館が目に入った。

よく見ると、「北京料理・東華菜館」の看板が出ているので中華料理店らしい。

中に入ってみると、まだ店は準備中とのことだったので、内部を少し覗かせてもらった。

聞けば、前身は西洋料理店「矢尾政」の2代目オーナー浅井安次郎がウィリアム・メレル・ヴォーリズ(18

80〜1964)に設計依頼し、大正15年(昭和元年 1926)完成させたものだ。

戦後、所有者が変り、北京料理の店になっているとの事だった。
 

イメージ 1

                                  東華菜館
鴨川沿い、四条大橋西南詰に建つ。




イメージ 2

                                 東華菜館入口上方部



イメージ 3 フロント近くのエレヴェーター 
1924年アメリカ・OTIS製
現存する日本最古のエレベーターとか
蛇腹式内扉、時計針式のフロアインディケターなどで、
昇降は運転手にによる手動式




イメージ 4 東側(鴨川)側の窓




イメージ 5 一階大客室の天井

長田神社古式追儺式は、前日の2月2日より厳重な潔斎した7人の鬼役によって奉仕される。

この鬼は、この地方の他の神社や寺の追儺式での鬼と同じく善鬼である。

長田神社では、鬼は神のお使いとして、神に代わって燃え立つ松明を振りかざして様々な災厄を焼き祓

い、太刀で寄り来る不吉を切り捨て、天地を祓い国土を清め、人々の無病息災を祈る踊りをする。

そして、最後に一年を表す「影の餅(鬼の餅)」を打ち割る「餅割神事」を行い、一陽来復の春を祝う。

起源は、鬼面・太刀などの製作年代や古文書などにより、室町時代まで遡り、境内の薬師堂での修正会と

言われ、よくその昔を今に伝える神事である。

当日使用する鬼面7面と共に兵庫県重要無形民俗に指定されている。


イメージ 1 赤鬼




イメージ 2 姥鬼



イメージ 3 呆助鬼 



イメージ 4 青鬼




イメージ 5 一番太郎鬼



イメージ 6 尻くじり鬼 



イメージ 7 餅割鬼 


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