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JR福井駅から徒歩約5分のところに福井城祉があった。 福井城祉といわれる、堀に囲まれた本丸跡は現在福井県庁となっている。 当時の建物は何一つ残っていないが、堀と石垣、正面の御本城橋、最近復元された御廊下橋、そして本丸 北西隅にある天守台跡などが福井城の面影を伝える。 福井の歴史は天正3年(1575)柴田勝家が織田信長から越前を与えられ、当時「北の庄」と呼ばれていた ここに城郭を築いたことから始まる。 勝家が羽柴秀吉に敗れた後、丹羽氏、堀氏が城主になるが、慶長6年(1601)越前68万石を与えられた結 城(松平)秀康が大改修して、現在残る本丸跡を中心に幾重にも堀をめぐらした大規模な平城を築いた。 代々徳川の親藩たる松平氏越前を領し、福井城を居城とした。3代忠昌のとき「北の庄」から「福井」に 改められた。 福井城祉の正面「御本城橋」 福井の名の元になった「福の井」 改築以前からあり、名水として知られていた。寛永元年(1624)「北の庄」から「福井」に改称されたが、その由来はこの「福の井」の名に因んだものと伝えられている。 「天守台」 当初四層五階の豪壮な建物だったが、寛文9年(1669)の大火で焼失、その後再建されることはなかった。 「控天守台」 昭和23年(1948)の福井地震などによる崩落の跡を残している 「御廊下橋」 藩主が政庁であった本丸と西三の丸御座所とを往復する為の専用の橋 近年復元されたもの ーー結城秀康ーー
天正2年(1574)徳川家康次男として生まれる。 天正12年(1584)小牧・長久手の戦の後、和解の条件として、羽柴秀吉の養子(実際は人質)とされ、元服ごは、羽柴秀康と名乗る。 天正18年(1590)下総国の結城晴朝の姪と婚姻し、結城家の家督11万石を継ぎ、結城秀康と名乗る。 慶長5年(1600)関が原の戦の時は関東にあって、上杉方の押さえに廻る。 慶長6年(1601)越前北庄67万石に加増移封される 慶長9年(1604)松平姓に戻ることを許されたと言われるが本人は一生「結城」姓のままでいたとも言う。 慶長12年(1607)死去 享年34歳 |
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2008年12月30日
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