|
8:00名古屋発特急「しなの3号」に乗ると10:03に松本に着いた。天気は曇り、着く前は雨が降 っていたらしく道が濡れていた。 松本城の方へ歩いているといやに暑い。寒いと思って厚着で出てきたのが裏目に出たようだ。コートは脱 ぎ捨てた。こうなるとコートは邪魔ものだ。 は長野善光寺参拝を思い立ち、序でに国宝松本城を見ておこうと思って途中下車したのだ。15年ほど前子供を連れて訪れたことがあるので、道順は大体分る。駅から徒歩20分くらいだ。 暦の上では春だが、最も寒い時期とあって、観光客の姿は少ない。むしろ中国の団体が多かった。
松本城全体図
松本城は16世紀始め造られた。信濃の守護小笠原氏の居城林城の支城の一つで、深志城といった。武田信玄によって、追われていた小笠原貞慶が天正10年(1582)本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めた。 天正18年(1590)小笠原氏が徳川家康に従って下総に移ると、豊臣秀吉は石川数正を封じ、以後6家23代が藩主となり明治を迎えた。 一部の外堀、内堀、天守と付属する建物は残っているが、黒門、太鼓門は復元、二ノ丸御殿跡が史跡公園として整備され、平面復元されていた。 本丸に入る正門。楼門と枡形からなり、本丸防衛の要である。一の門(楼門)は昭和35年(1960)、二の門と袖塀は平成2年(1990)に復元された。 太鼓門枡形は文禄4年(1595)頃築かれ、門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、時の合図、登城の合図、火急の合図などの発信源として重要な役割を果たしていた。平成11年(1999)に復元された。
内堀外から見た天守及び櫓
豊臣秀吉に封じられた石川数正及び子・康長が近世城郭として松本城の基礎を固めた。天守・乾小天守の築造年代は文禄2年から3年(1593〜1594)と考えられる。 辰巳付け櫓や月見櫓は寛永年代(1624〜1644)に松平直政により造られた建物である。 登閣すると、厚い壁に矢狭間・鉄砲狭間や石落しがあり、極めて実戦的な城であることが分る。 城内では火縄銃と関連資料の展示をしていた。 埋の橋詰からの天守 天守の石垣上部に工事用の足場が組まれているが、警報用のセンサーを取り付け工事をしているそうだ。 急な階段を登っていくと、最上階は四方眺めがよく、戦の際は望楼として使われたと言う。 天井は井桁梁でがっちりと組まれ、天井中央には二十六夜神という松本城を守る神様が祀られていた。 書院造り風のこの部屋はいざというときには、城主が入る処(御座所)となった。 天井が高く、すべて檜で、鉋がかけられ、鴨居の上には小壁もあり、丁寧なつくりとなっている。 なお、江戸時代以前の天守が現存する城は次の12城だ。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年02月13日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]
は長野善光寺参拝を思い立ち、序でに国宝松本城を見ておこうと思って途中下車したのだ。


