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萬福寺は建物のたたずまいや内部の荘厳、安置する仏様、それに儀式作法、お経の誦みなど全てが中国色 濃厚な寺(歴代住職の内16人が中国僧であった)で、かって茲を訪れた日本人は、日本でなく異国かと錯 覚に陥ったに違いない。 それを裏付ける句碑が萬福寺境内、総門と三門の間、に建っていた。 「山門を 出れば日本ぞ茶摘うた 菊舎」寛政2年(1790)萬福寺を詣でた時の句。 黄檗山のただずまいに酔いしれた菊舎(長府の人、美濃派の女流俳人)が三門を出た時、門前の茶畑からの茶摘唄が聞こえ、一瞬我に返った時の句だ。彼女は前書きに「見聞に耳目をおどろかしつつ黄檗山の内を拝しめぐり、誠に唐土の心地侍れば」と記している。 菊舎が訪れた頃と違い、市街地化の波は押し寄せ、萬福寺の周辺からは茶摘唄が流れるほどの長閑な風景ではない。それでも小規模な茶畑が少し残っていた。 萬福寺は中国色濃厚な寺であるが、やはり日本的なものがあった。鎮守社である。 天王殿前の向って左手にあった。神様の名や創建時期は分らないがここにも参拝させていただいた。
隠元禅師登岸之地 碑
萬福寺から1kmほど離れた隠元橋(宇治川に架かる橋)詰にこの碑が建っていた。平成20年(2008)建立で、 「万治2年(1659)将軍家綱から寺領を賜ることとなった隠元禅師が 新寺の候補地探しの為船で宇治川を遡られ、この付近に来た時、東方の山(妙高峰)袂から2羽の鶴が舞い上がったのを見られ、縁起良しとして下船され、萬福寺の建設地を決定された。 建設予定地の風景は渡日直前まで住持をされていた中国福建省黄檗山とよく似、又日本に滞留しても故郷を忘れないようにとの思いから新寺の名称を同名の黄檗山萬福寺と名付けられた。 この石碑は禅師の偉業を称えるため、禅師出身地から石材を取り寄せ、中国古来の伝統形式である亀趺の形に仕上げ製作された」と記してあった。 隠元といえば「インゲンマメ」次いで「黄檗宗」が思いつく位だが、実は日本に多くのものをもたらした らしい。 これについて、五木寛之は「百寺巡礼」(講談社)で次の様に述べている。 「とにかく、禅の教えでだけでなく、文化全体にわたって、隠元は日本列島に大きな波紋を起こした。 美術、絵画、骨董、そして信仰、思想さらには生活習慣から風習、流行、世相風俗というものを、そっく り丸ごと日本に伝えたのだった。」 萬福寺から隠元橋に行く途中、塔頭寺院の一つ「宝蔵院」があった。ここの収蔵庫には「鉄眼一切経版 木」約6万枚が収納されている。明の版を底本に作られた為、書体は「明朝体」だ。明朝体活字のルーツ と言われるものだ。 見学したかったが、事前予約制とかで残念ながら見られなかった。
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2010年03月13日
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