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「旧平野郷はいまでは大阪市内の一区画に過ぎないが、かっては堺と共に輝かしい自治都市 として,日本の近世史にその足跡を残した町であった。」(村田隆志「平野郷小史」) JR関西本線平野駅の下車した。平野(ヒラノ)駅前に漆喰塗りの古民家が一軒どっしりと構えていた。 周辺はどこにでもある駅前風景だが、これだけで平野を訪れたことに期待させた。 9世紀はじめ、征夷大将軍坂上田村麿の次男・広野麿が朝廷よりこの地を賜り「広野の庄」と呼ばれるよう になる。やがて広野が平野に転訛したのが地名の由来と伝えられる。 戦国時代の平野郷は奈良街道などが通り、摂津、河内、和泉、大和方面を結ぶ交通の要所として栄えた。 当時の平野郷は、町の安全を図って市街の周りを濠と土塁で囲み、その濠の間に各方面に通じる13の木 戸口がおかれ、門や地蔵動があったという。 平野の代表的寺社、大念仏寺と杭全(クマタ)神社を廻っているだけで、戦国時代の自治都市「平野郷」 の面影を垣間見ることができた。 杭全神社の参道に建っていた。 杭全神社東側に小川が流れているが、 それが環濠跡とのこと。 杭全神社前の、平野をほぼ東西に通る国道25号線、を渡り、数十m歩くと、旧奈良街道が通っている。 そこに建っていた道標。 江戸時代建立、「当社 熊野権現 祇園社」「右大阪 寛政12年」「右 こうや 大峰」と彫られているのが読める。 泥堂口地蔵堂と地蔵尊 13木戸口の一つ泥堂口門の傍らにあったもの。 泥堂口は奈良街道の大阪、天王寺方面に通じる大門をもつ木戸として重要な出入り口だった。
馬場口地蔵堂と地蔵尊
13木戸口の一つ馬場口門の傍らにあったもの。大門は泥堂口とともに奈良街道の大阪、天王寺方面に接続していて、大阪方面から大念仏寺への参詣口でもあった。 |
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2010年09月22日
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