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「嵯峨に西行をひきつけたのは、ただ景色が美しく静かだというだけではあるまい。 そこには待賢門院が晩年を送られた法金剛院があるからだと私は思っている。」・・・・中略・・・・ 「庭は思いのほか手入れがゆきとどき、真ん中に大きな池が残っていて、のびのびとした 平安朝の回遊式庭園の名残をとどめている。 『花園』の名にたがわず、四季折々の草木が植えてあるのも趣があり、ちょっと想像力を働かせれば、 かっての盛観を甦らすことも、さして至難なわざではない。」(白洲正子「西行」法金剛院にて) JR花園で下車する。「花園」の地名は平安初期、右大臣清原夏野が御室仁和寺から双ヶ丘一帯に大規模な 山荘を築き、その庭園に梅や萩などの花が咲き乱れたのが由来とか。 花園駅向かい正面と言って良いほどの、直ぐ近くに法金剛院というこじんまりとした寺があった。 山号は五位山、阿弥陀如来を本尊とする律宗のお寺で、花の寺として有名らしい。 しかし、特にすばらしいといわれている「夏の蓮」は終っていた。 庭園の池には蓮の葉が生い茂り、ハチスには黒い種が詰まっていた。 大治5年(1130)この一帯に鳥羽天皇の中宮で、西行が心を寄せたと言われる待賢門院璋子により「仁和寺 の御堂」として建立されたのが法金剛院の起こり。 当初は大寺だったが、応仁の乱などで衰微し、江戸時代には再興されたがJR山陰線や新丸太町通りの開通 で寺域が大幅に縮小された。 本堂には、本尊阿弥陀如来坐像、地蔵菩薩立像、十一面観音坐像、僧形文殊坐像(いずれも重文)が安置 されていた。 待賢門院が極楽浄土として造らせた池泉回遊式の庭園を 発掘復元された平安後期の貴重な庭園遺構といわれている。 庭の隅の瀧、水が流れていなかった。 近くに百人一首で御馴染みの和歌を刻んだ歌碑があった。
同じ百人一首のでも、
は水の流の無い青女の瀧から、次ぎの一首の方が思い浮かんだ。
もっともこの歌の舞台は大覚寺大沢池だが・・・。 |
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2010年10月02日
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は水の流の無い青女の瀧から、次ぎの一首の方が思い浮かんだ。



