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仁和寺、蓮華寺より衣笠山南麓の「衣かけの道」を歩く、途中石庭で知られる龍安寺を過ぎる。 その先で折れて南に入ると立命館大学キャンパスがあり、その南側に等持院があった。 ここは水上勉が、13歳から18歳の間修行した寺だ。その時の経験が直木賞作品「鴈の寺」の続編「鴈の 森」で、舞台となる「奇崇院」とはこの寺に違いない。 そんなことを思いながら山門をくぐり、拝観の申込みをした。 等持院は足利氏菩提寺の等持寺別院として暦応4年(1341)足利尊氏が夢窓国師を迎えて建立。 延文3年(1358)尊氏没後墓所となり、その法名をとって等持院と改められた。 禅宗十刹の筆頭寺院であり、応仁の乱後、等持寺も等持院に吸収され、歴代足利将軍の菩提所となった。 寺内には方丈(本堂)を中心に、夢窓国師(疎石)作庭の庭が2つあり、衣笠山を借景にした西庭が特に素晴 らしかった。 室町後期には、五山制度の十刹の第1位にあげられる名刹 拝観手続きして方丈に向うと、まず目に入る大きな衝立に描かれた祖師像。 天龍寺管長だった関牧翁が描いたもの。 元和2年(1616)福島正則が妙心寺塔頭海福院の方丈として建立したものを文政元年(1818)移築したもの。 足利尊氏の念持仏の地蔵像(伝弘法大師作)を本尊とし、足利歴代将軍像(第5代義量と第10代義栄は欠く)、徳川家康像を安置している。 徳川家康像は明治の神仏分離令により廃絶した石清水八幡宮豊蔵坊より移したもの。 なお、江戸時代末京都で尊王攘夷の運動が激化した時の文久3年(1868)2月22日の夜、過激な浪士たちが等持院を襲い、尊氏、義詮、義満の木造の首を切って逆臣として三条河原に晒したことがあった。 その後木造は修理されたのであろう、何事もなかったかのように安置されていた。
庭 園 (西 庭)
夢窓国師(疎石)が作庭した池泉回遊式庭園。衣笠山を借景にし、芙蓉池に蓬莱島が浮かび、築山には茶室・清漣亭がひっそりと建つ。村田珠光、相阿彌らと茶道を興した義政好みと呼ばれる茶室。 方丈北の庭の中央にある宝篋印塔 塔の台座には四面に立派な格狭間があり、宝瓶には蓮花を押した紋様があって、室町時代の形を示している。 台座四面の正面に延文3年4月の文字が見られる。 江戸時代後期の尊王家の高山彦九郎が尊氏の罪状を数えながら鞭打ったそうだ。 尊氏は54歳で三条坊門の邸で病死した。 「衣笠山の麓等寺院に葬し奉る。鎖龕(サガン)は天龍寺の龍山和尚、起龕は南禅寺の平田和尚、 奠茶(テンチャ)は建仁寺の無徳和尚、奠湯は塔福寺の鑑翁和尚、下火は等持院の東陵和尚・・・」
(「太平記」巻第三十三) 尊氏の死に際し、葬儀は京都の臨済の大寺の僧を動員して仏式行われ、火葬したことが分る。 |
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2010年10月08日
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