|
今宮神社の東南隣に大徳寺がある。大徳寺といえば、「一休さん」や「千利休」の名がふと浮かぶ。 最近2,3度訪れているが、いずれの時も他所の大寺に比べ人気が少なく静寂としている。 境内を巡っていると、塔頭の築地塀、伽藍に沿って敷かれた石畳、静謐な空間が足元から伝わる。 大徳寺は山号を龍宝山と称し、臨済宗大徳寺派の大本山である。鎌倉時代の末期、正和4年(1315)大燈国 師峰妙超禅師が開創した。 室町時代には幕府の保護を辞退し、在野の禅院として独自の立場を貫いた。 応仁の乱では荒廃したが、47世住持の一休禅師(宗純)が堺の豪商の支援を受けて復興、桃山時代の天正10 年(1582)羽柴(豊臣)秀吉が本能寺で殺された織田信長の葬儀を営んだ。 豊臣秀吉や諸大名により建物や寺領が寄進され、江戸時代初期には現在の建物が整えられた。 勅使門から山門、仏殿、法堂、方丈が南北に一直線にならび、そのほか七堂伽藍が完備する、禅宗の典型 的な伽藍配置をしている。 広い寺域には別院2ヶ寺、と21の塔頭が甍を連ね、それぞれ貴重な建築、庭園、美術工芸品が多数残って いるとのことだ。 緑濃い境内、禅宗寺院独特な厳粛な雰囲気が漂う。 寛永17年(1640)移築 重文 御所の門を後水尾天皇から拝領したと伝えられる桧皮葺の四脚門 重文 上層に釈迦三尊像を安置する。 天正17年(1589)二階部分を千利休が増築完成させ、金毛閣と称した。 利休の像を安置したことから秀吉の怒りを買い、切腹の原因となった。 二階正面の「金毛閣」の額は江戸初期の文化人として名高く、弁当にその名を残す松花堂昭乗の筆による。 寛文5年(1665)再建 重文 寛永13年(1636)再建 重文 天井画の「雲龍図」は狩野探幽35歳の作 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2010年11月04日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]


