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宝珠山中腹にある観音堂に参拝し、坂越の裏道、宝珠山の麓を通って、坂越駅に向う。 スムーズに歩いたのではなく、行きつ戻りつしながら、時には犬に吠え立てられながら、田舎道の散策を 楽しんだ。 こうした中にも興味を惹いたものがあったのでここに取上げておく。 妙見寺観音堂 大避神社の境内を抜け、宝珠山を少し登っていくと山の中腹に建っていた。 真言宗古儀派の寺院であり、天平勝宝年間(749〜757)に行基が開山し、後に、大同元年(806)空海が中興したと伝えられる。 かっては宝珠山の中腹にかけて16坊5庵を有していたが、文明17年(1485)の僧兵の一揆により焼失した。 観音堂は萬治2年(1659)建立され、現在の堂は享保7年(1772)再建されたもの。 妙見寺観音堂から降りてくる途中に建つ。 児島高徳は、南北朝内乱期、新田義貞と共に足利尊氏と戦った南朝の忠臣。 元弘の変(1333)に敗れ隠岐に流される途中の後醍醐天皇に院庄(現 岡山県津山市)で厳重な警護をくぐり柳の木に次の十字の詩を刻み、天皇を励ましたことで知られる。 「天莫空勾践 時非無范蠡(天、勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きしも非ず)」(「太平記」巻第4) その意は、「天は中国春秋時代の呉に敗れた越王勾践の時の様に帝を見捨てないでしょう。必ずや范蠡の様な忠臣が現われることでしょう」である。 旧坂越浦会所の近くに建っている五輪塔 南北朝時代、南朝の後亀山天皇の皇子・小倉宮が坂越に隠れ住み、後に海に身を投じたといわれる。 大道の一筋離れた細い裏道に建っていた。 坂越が廻船の港として栄えた頃に建てられた。 回りに取り付けられた彫刻はその頃の優れた芸術品 海側にはかぼちゃ、山側には二股大根、大根の彫刻には小さな鼠が彫り込まれている。 どちらも縁起の良い図柄 |
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2010年11月18日
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